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2023年8月13日
『
たとえ不利になろうと、主の側に立ち、
信じる道を選択する
』
~癒された盲人の純な決断
~
ヨハネの福音書 9:8~16、24~38
(起)
ヨハネ9章の
「癒された盲人の純な決断」
について学び、今後、私たち自身に対する試みが
起こった時、
「たとえ不利になろうと、主の側に立ち、信じる道を選択する」
と定める事を、学んで
行きたいと思います。
(承)さて、イエス様は生まれつきの盲人を見られると、
唾
(
つば
)
で造った泥を盲人の目に塗り、
「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。盲人が、主の言われた通りにすると、なんと
目が見えるようになったのです。これは素晴らしい奇跡であり、とても喜ばしい出来事です。
ところが、
その日は安息日であった為、パリサイ人たちはイエス様を非難し、癒やされた盲人を罪人扱いしたの
です
。そして、癒やされた盲人を呼んで、「お前の目を開けてくれた人をどう思うか」と聞くと、
彼は
「預言者だと思います」と答え、
決してイエス様を罪人扱いしませんでした。
9章22節にあるように、
当時は、「イエスをキリストと告白する者は会堂から除名される」という時代でしたから、彼の両親で
さえ、会堂から追放される事を恐れて、「彼に聞いて下さい」と逃げたのです。
しかし、癒やされた
盲人は、イエス・キリストをメシヤと認めれば会堂から追放されると知っていながら、パリサイ人たち
に動ぜず、
毅然
(
きぜん
)
と対応して行きました。
彼は、自分を癒して下さった方を罪人だと定めて、裏切る
ような事はしなかったのです。むしろ、
会堂から追放される事も恐れずに、「全能主は、罪人の言う
ことはお聞きになりませんが、全能主を敬う人の言うことは聞き入れて下さいます。だから、私を
癒して下さった方は、当然のごとく、全能主から来た方です」と告白して、イエス様を信じる心を
表したのです
。
すると、案の定、彼は会堂から追放されてしまいました。
ユダヤ人にとって「会堂から
追放される」という事は、ユダヤ人社会から見放されて、律法に反した者として裁かれ、孤立した
生活を強いられることになるのです。ですから、たとえ目が見えるように癒やされたとしても、生き
地獄でしかありません。それでも、
彼は「たとえ自分が一人ぼっちになろうが、軽蔑されようが、
不利になろうが、損をしようが、恥をかこうが、私はこのお方を信じます」という方向に心を向けたの
です。
その純な心がイエス様と繋がりました。
(転)では、もし私たちがこの時代に生きていたら、どうしていたでしょうか。私たちは、自分が今
生きている社会の中で
「除け者にされる事や非難される事や不利になる事を極端に嫌い」、
自分に
有利になることばかり考えています。ですから、私たちの心の中には、常に自分を守る思いが優先し、
いつも損得で物事を考えて、自分が不利にならないように、盲人であった親のようにパリサイ人に
迎合しようとするのではないでしょうか。そのように、身を守る肉の性質を抱え込んでいるのが、
私たちの現実です。
しかし、それをしたら、盲人のようにイエス様の側に立つ事はできません。
ましてや、患難時代に信仰を全うする事は難しいでしょう
。
多くの人たちは、患難時代に入ると、
目に見えない全能主に信頼するよりは、その場での力ある者に頭を下げて、身を守るようになって
しまいます。
しかし、その力ある者は666であり、偽預言者です。
666は、悪魔の力を借りて
世界の支配者となります。そのような中で、クリスチャンは彼らに逆らい、イエス・キリストを信じる
心を表すのです。そして、聖書に書いてある通り、クリスチャンは迫害され、殺されて行くのです
。
もし、自分を守り、地上的な損得や、自分の事ばかり意識していたら、弱気にさせられ「恐ろしい目に
遭いたくない」と簡単に悪魔の側に付く者になってしまいます。
ですから、患難時代に入れば、信じる
側に回るからと安易に考えているなら、大変なことになります。なぜなら、今「イエス様にあって
立つ」と決めておかなければ、患難時代に入ったら、尚のこと信仰に立つことは難しくなります。です
から、今、私たちはこの悪魔と
縁
(
えん
)
を
切
(
き
)
らなければなりません。それは、ただ「退け」と祈れば
いい訳ではありません。悪魔の影響を受ける
度
(
たび
)
毎
(
ごと
)
に退けたとしても、その程度で悪魔との縁は
切れません。
では、悪魔との縁を切るには、どうしたらいいのでしょうか。
それは、盲人であった人
のように、除け者にされても、純な信じる態度を取る事です。
即ち、たとえ自分がこの地上で不利に
なり、損をし、恥をかいたとしても、主の側に立ち、信じる道を選択するのです。
それが、私たちの
純な信仰の心です。
この純な信仰に立つ時、
悪魔との繋がりは断ち切られて行くのです。
(結)ですから、「
私たちが悪魔と縁を切る道は、心を純にすること
」がその答えです。どこまでも、
地上での損得を考えて、弱い自分を守り続けて行こうとする人は、決して悪魔との縁を断ち切れない
でしょう。
もし、断ち切らなければ、悪魔に身を任せる事になってしまいます。そ
れではいけません。
そこで今、私たちは、肉の心を純な心に変えて、信じる道を選択する生き方に変えていくことです。
すると、全能主がその人に平安を与えて下さいます。
だから今、その訓練のために、戦いの試みが
あるのです。その訓練は、たった一回の経験で終わる事ではありません。この地上にいる間、命閉じる
時まで、いつも、その試みの中を通されます。そして、その時に「純な信仰に立つか、立たないか」を
決めるのは、自分の信仰次第です。どうか、目を覚まして、
「今後、自分に対する試みが起こって
来た時は、勇気を持って毅然とした決断をし、純粋に信じる信仰の道を選択しましょう。」
そして、
二度と弱気にはならないと定め、
捨て身の信仰を持って悪魔と縁を切り、勝利していきましょう。
その信仰が患難時代に通用する秘訣だからです。
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