教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2023年8月6日

全能主の言葉を肯定し、心を柔らかくし、
どこまでも全能主の側に立ち、信じる心を表していく

ヨハネの福音書 6:47~59


(起) ヨハネ6章32~60節の記事から、「全能主の言葉を肯定する中で、どこまでも心を柔ら

かくし、どこまでも全能主の側に立ち、
信じる心を表して行く事」について、学んで行きたいと思い

ます。


(承)さて、ヨハネ6章32節以降から、イエス様は「わたしは命のパンです」と大胆に語って行かれ

ました。しかし、それを聞いた多くの人々は、最終的に「これはひどい言葉だ」と言って、イエス様

から離れて行ったのです。その経緯(いきさつ)は彼らの無知蒙昧(むちもうまい)にあったのです。先ず、イエス様の

ところに集まっていた彼らの多くは、5つのパンと2匹の魚で養われた人々たちで、驚くべき奇跡を

経験し「このお方に従って行きたい」という気持ちを持っていた人たちです。それなのに、イエス様

から離れ去ってしまったのです。
その訳は、イエス様がモーセのような地上的なメシアではなかった

からです。イエス様が「わたしは命のパンです」と言われたのは35節からですが、この時は、群衆は

まだ、「モーセが天からの『マナ』を人々に食べさせた」ということを知っていましたので、群衆は

なんの抵抗もなく主の言葉を受け止めていました。そして、「わたしに来る者は決して飢えることが

なく、渇くことがありません」と言われれば、この方は、モーセと同じように、自分たちに「命の

パンを与えてくれる」と、期待を持って御言葉に聞き入っていたのです。ところが、51節で「わたしは

天から下って来た生けるパンです。もし、人がそれを食べるなら、永遠に生きます。わたしが与える

パンは、わたしの肉です」
と言われた時、突然の突拍子(とっぴょうし)もない言葉に、戸惑いを隠せず「イエス

様を殺して、人間の肉を食べろ
」ということかと、反発が起き、彼らには理解できませんでした。

その為、彼らの心が一変し、「一体自分を何者だと思っているのか」、「モーセよりも偉大だと言う

のか」と、イエス様の言葉につまずいたのです。彼らは怒りを持って「どのようにして、その肉を

私たちに食べさせることができるのか」と疑問を持ちましたが、
イエス様は、その疑問に応答する

わけでもなく、その疑問を無視して
「人の子の肉を食べず、その血を飲まないならば、あなた方に

命はありません」
と言われたのです。ですから、彼らは益々心が頑なになり、イエス様を信じて

従って行こうとしていた群衆たちも「こんなひどい言葉は聞いていられない」と言って、去って行って

しまったのです

(転)では、ここから私たちが学ぶべき事は何でしょうか。それは、彼らのように、「自分たちの

理解できる範囲内で、自分の願い通りに答えが来なければ、従うことができない」
という考え方は、

間違っているということです。全能主は、私たちに対して、一つ一つ理屈で説明することはなさらず、

上からの真理を一方的に私たちに語られます。しかし、絶対的な方がお語りになるのですから、それは

当然です。ならば、私たちが聖書を開いた時も、私たちが理解できようが、できまいが、全能主の

お言葉をそのまま受け留めて行くことが正しいのです。先程お読みした箇所に関して言えば実際には、

その当時では、イエス様が語られた内容を理解することは難しかったかもしれません。しかし、もし

彼らが、イエス様のしるしを一つ一つ吟味していたら、イエス様はモーセのような地上的な預言者では

なく、「天から遣わされたメシアであり、そうでなければ、こんなしるしを行うことは出来ない」と、

認めることができた(はず)です。そして、その時は分からなかったとしても、後で全てを理解出来る

ことなのです。案の定、主の12弟子たちも、疑問を持ったに違いありません。それでも「ひどい

言葉だ」と言って離れて行くことはしませんでした。ここが大事なところです。即ち、「これは上からの

言葉だ」と、受け()めて行ったならば、イエス様の本質が見えていた筈です。その本質を見抜いて

行く秘訣は、自分で分からない事でも、相手の側に立って語られている内容を聞いてみることです


これは、信仰の成長には、欠かせない大事なポイントです。
なぜなら、聖書に語られていることは、

皆、アオリスト形の真理だからです。即ち、アオリスト形とは、今、現在の状態では理解出来ない

ことでも、既に語られていることは、私たちに実現している事実であるという、聖書独特な言い回し

ですから、信じて受け止めて行くものです。
ですから、今分からなくとも、信仰によって御言葉を

受け止めていく事は大事なことです。主の弟子達は、イエス様が甦られた後、「イエス様が語って

おられたことは、このことだったのか」と、全て理解できました。ですから、私たちもそのように

信じて行く姿勢が必要です。
全能主の言葉が理解できなくとも、全能主は絶対的なお方ですから、

そのお方が「こうだ」と言われたなら、問答無用で受け()めて行けばいいのです。しかしながら、

私たちの肉の性質は、命閉じる時まで、なくなりません。ですから、信じてからも全能主に逆らう

魔物の心も持っています。それは、私たちがアダムとエバの子孫だからです。エバは、エデンの園で

サタンから(そそのか)されて木の実を食べ、それを蛇の所為(せい)にしました。そして、アダムも木の実を

食べ、それをエバの所為(せい)にしました。ということは、彼らは、自分たちの罪をそのままにし、

ルシファーとの縁を悔い改めて、断ち切ることをしなかったのです。その為、その罪が子孫に繋がって

いきました。
ということは、私たちも「自分が悪かった」と認めて、「けじめをつける」事をしなければ、

その後、生まれてくる子孫も、皆ルシファーと(つな)がり、魔物の声が当
たり前のように聞こえて

来るのです
しかし、罪を認めて悔い改めたのなら、
悪魔とのつながりは、その人の純な信仰 によって

断ち切られ
、魔物の声を退けて行く事が出来ます。
ということは、たとえ魔物の声が聞こえても

「全能主の言葉を肯定して
どこまでも全能主の側に立って、信じる心を表して行く事」をしていけば、

悪魔と縁が切れ、「全能主が言われる事は全て真理だから、どこまでも信じて行こう」と、「心を柔ら

かくし、主に委ね、信頼して行く」
者となり、主の御言葉につまずくことはないのです。

(結)このように、私たちは、何があっても、「これはひどい言葉だ」と言って、イエス様から離れて

行くような方向に向かってはいけません。私たちは元々罪人ですから、全能主に対して、何かを

要求する権利さえなく、そのような立場でもありませんでした。
ですから、へりくだって「私は

100%罪人ですから、全能主のみに、依り頼みます」
と言うのが、私たちの信仰のあり方です。

全能主と私たちは、そういう関係にあることを認めましょう。そして、全能主の言葉を全部肯定する

中で、聖書を読み、受け留めて行くなら、聖書がよく分かってきます。どうか、心を柔らかくし、

全能主の言葉を肯定する中で、どこまでも全能主の側に立ち、信じる心を表して行こうではありま

せんか。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室