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2023年9月24日

天の御国の住人として、天で輝く生き方を証していく
クリスチャンの信仰のあり方

マタイの福音書 13:31~52


(起) マタイ13章24~52節の天の御国の譬え話から、「天の御国の住人として、天で輝く

生き方を証して行くクリスチャンの信仰のあり方」を学んで行きたいと思います。


(承)ここでは「天の御国」について、毒麦の譬えとか、からし種とパン種、また地引き網などに

ついて、いろいろな譬えで語られていますが、これらの譬えに共通して語られている事は、「天の

御国の譬えが、
世の終わりと関わりをもって語られている」という事です。40節の御言葉では、

「毒麦が御国から集め
られて、火で焼かれるように、世の終わりにもその通りになります」とあり

ます。また、49節の地引き網の
譬えでも同じように語られています。という事は、天の御国と、

世の終わりに起こる事とは、関係がある
ということですそれは、私たちが今、クリスチャンとして

この地上で歩んでいますが、皆が皆、天の御国に
入れられるわけではないという事になります。例えば、

地引き網というのは、食べられる魚も、食べられない
魚も入って来ますので、陸に上げた時にそれを

()
り分けなければなりません。それと同じように、世の終わりの裁きの時には、たとえ信じて

教会に集まっている者たちであっても
、天の御国に入れられる者と、
そうでない者とが区別される

という事です。それが、41節「御国から取り集めて、燃える火の炉に投げ
込みます」という御言葉

です。なぜなら、主は、この地上で「自分の命を自分のものとした者は、それを
失い、わたしの

ために自分の命を失った者は、それを得ます」と言われました。それは、キリストの救いは
、この地上の

救いではなく、天にある救いだからです。ですから、信じた者は「天に価値を置いて生きて
行きな

さい」と言われているのです。それなのに、「ただ信じて、地上の御利益を求めているなら、キリ

ストの救いを利用するだけになり、キリストの救いに預かった生き方ではない」のです。主はペテロに


「あなたは、全能主のことを思わないで、人のことを思っている」と指摘されました。「人のこと」とは、

「この
地上のこと」です。クリスチャンの国籍は天にありますから、この地上では、主の十字架を

負って従って
行くのです。その生き方が、救われた者に求められている生き方です。ですから、クリス

チャンは、地上の
ものを求めて生きて行くのではなく、天に望みを持って生きて行くのです。それが、

世の終わりに、はっきり
審判されることなのです。即ち、白き御座の審判の時には、地上のことを

追い求めて、自分のために
生きて来たのか、天に望みを置いて、主のために生きて来たのか、このことが

現実の事として審判されるの
です。「招かれる人は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)

ですから、私達はこの地上にあって、御国にふさわしい生き方をしなければなりません。


(転)
では、それはどういう生き方かと言いますと、43節にこう書いてあります。「その時、義人

たちは
父の御国で、太陽のように輝き渡ります。」即ち、父の御国に入る御国の子らは、天の御国で太陽の

ように
輝く生き方を地上でするのです。即ち、クリスチャンは、この地上にあっては、たとえ見栄えの

しない、
からし種のような者であったとしても、天の御国に価値観を置き、天を見上げて生きて行くなら

パン種の
ように御国で豊かな実を結び、輝き渡るという事です。私達は、天に国籍を持つ者として、

そういう者に
ならなければなりません。その為には、私たちは天の御国で輝く者として、たとえ

今、この地上に生きていたとしても、天の父の御心に適った生き方をして行くのです私達は今まで、

自分の価値観に従って
生きてきました。それを今、根底から変えて行かなければなりません。この

地上で自分にとってメリットがあるか、ないかではなく、天の全能主に対してメリットがあるか、

ないかです。
ロマ書12章1節を見ますと、「あなた方の体を、全能主に喜ばれる、生きた、聖なる

供え物としてささげなさい」とあるように、どこまでも、全能主に喜ばれなければなりません。

そして、「この世と妥協させられてはいけません」とあります。即ち、生まれたままの世的な考えの

中に留まっていてはいけないのです。私達はそこから離れ、自分というものを全部、全能主に明け

渡さなければなりません。そして、聖書を読む時も、自分の中から出てくる肉の見方を横に置いて、

「全能主は何を言わんとしているのか」という見方をして行く事です。ガラテヤ6章14節に、

「この世は私達に対して十字架につけられ、私達もこの世に対して十字架につけ
られた」とあります。

即ち、私達が今住んでいるこの場所は、私達にとっては死んだ世であり、この命も死んだ者として、

全く新しい創造の命(ガラテヤ6:15)の中で生きて行くのです。だから、今住む世に
価値観を

置いてはいけません。私達は、世に対しては死んだ者です。まさに、これが聖書のメッセージであり、

クリスチャンの救いの真理です。

(結)どうか、この新しい見方で始めて行きましょう。聖書をそのまま読んで行くと、クリスチャンは、

世では
憎まれ、除け者にされることがあります。しかし、それは、次元の違う生き方をするからです。

今までは、そのような御言葉を意識的に読み流してきましたが、それは、私達が世的な目で聖書を

読んで来たから
です。これは、全能主の御心と、かけ離れた読み方です。しかし、私達はどこまで行っても

全能主第一で
す。これからは、この観点から全てを考え、聖書を汲み取って行きましょう。どうか、今までの

流し読みの
聖書の汲み取り方を、文字通り受け止めた、本気の信仰の姿勢に改めて行きましょう。

次元の違う天の御国の住人として、天で輝く生き方を、この地上で証して行きましょう。


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