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2023年10月1日

全能主の考え方に立って証することが、
クリスチャンの生き方である

~全能主の考え方と世の考え方の違いは何か~

マタイの福音書 20:1~16


(起) マタイ20章1~16節のぶどう園の譬えから、「全能主の考え方と世の考え方の違いが

何か」
を学び、「全能主の考え方に立って証することが、クリスチャンの生き方である」ことを学んで

行きたいと思います。


(承)さて、ここでは、ぶどう園の主人と労働者の譬えが語られています。主人はまず朝早くに

出掛けて行って、一日一デナリの条件で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。その後、9時、12時、

3時、5時にも出掛けて行き、相当な賃金を支払うという約束で労働者を雇いました。そして、6時

になり、主人はそれぞれの者に賃金を支払ったのです。しかし、朝早くに雇われた者は、たった1時間

しか働かなかった者と自分の賃金が同じであった事に腹を立て、不平をぶちまけました。こういう

事は、どの時代にも起こっている事です。正に今の日本はそれと同じ様な事が起こっています。

それは、国の政策で労働者の最低賃金を1,000円に上げて、景気を回復したいという政策が

始まったからです。しかし突然、最低賃金が1,000円まで引き上げられた事から、これまで

務めていた人が、時給1,000円以下で働いて来たという事に不満を持って、「昔から、長い間

働いて会社に貢献して来た自分達よりも、新しく入った新入社員の方が、自分達よりも高い賃金を

貰えるなんて、そんな不公平な事がありますか」と非難が起こっているからです。この(ゆが)みは、

給与の賃上げが起こる時期には、いつも出てくる問題です。私たち人間は、どうしても、こうした

損得の感情には敏感で、一日中その事ばかり考えて、思い煩ってしまうのです。このように、私達の

悩みというのは、ほとんどが地上のことで、自分が損をするか得をするか、また、何を食べ、何を

飲み、何を着るかという問題が、いつも私達の悩みの種になります。

(転)では、そのような地上で起こってくる問題について、聖書では何と言っているのでしょうか。

ピリピ4章6節を見ますと、「何事も思い煩ってはなりません。あなた方の求めるところを全能主に

申し上げなさい」
とあります。また、第Ⅰペテロ5章7節にも、「全能主はあなた方を心配して下さる

のですから、自分の思い煩いを一切全能主に委ねなさい」
とあります。このように、地上の問題について、

聖書は「思い煩うな」と言っているのです。
ところが、思い(わずら)いたくなくても、頭が勝手に

思い煩ってしまうのが人間です。いくら考えても自分の思い通りにならないからです。ちょっと、

何かあるたび毎に、すぐ不満が出て、思い煩いの中に捕らわれてしまうのです。ところが、ガラテヤ

6章14節を見ますと、「キリストによって、この世は、私達に対して十字架につけられ、私達も

この世に対して、十字架につけられてしまったのです」とあります。言い換えると、「この世は私達に

とって死んだものであり、私達もこの世に対して死んでしまった者」
です。ですから、「死んで

しまった世の事で、いちいち悩んで思い煩うな」と言われ、「死んでしまった私達が世に心遣いをする

必要もない」というのが聖書の論理です。即ち、私達にとって世はどうでもいいという事です。

ですから、イエス様は、「父親の葬儀が終わってから従わせて下さい」と言った人に対して、「死人は

死人に葬らせよ」と言われたのです。しかし、こういう考え方は、この地上で生きている人間には

通用しません。
しかし、それが全能主の考え方なのです。聖書をよく読んで行くと、「全能主の見方と、

私達のこの世の見方は、全く違う」
という事が分かります。そして、聖書は、「全て世の事はどうでも

いい」という観点から語られている事が見えてきます。とはいえ、実際問題、私達はこの世で生きて

いるという事実がありますので、その両面の立場で聖書を見て行きますと、「まず第一に、全能主の

国と全能主の義とを追い求め続けなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられます」

(マタイ6章33節)
と言われているのです。ということは、「私達はこの世で生きている者ですが、

キリストを信じたクリスチャンは、天の国籍を持った者として、全能主を第一にして生きて行きな

さい」というのが、聖書のメッセージです
。そして、全能主を第一にして生きていく時、全能主は

この地上の必要は全て添えて与えると約束して下さっているなら、この聖書の言葉を信じて試す信仰が

必要です。(それを信じて始め出したのがジョージ・ミュラーさんです。)ですから、どこまでいっても、

「私達が考えるべき事は、この地上の事ではなく、天の御国を意識して生きて行く」ということです。

こういう観点から「この世のことで思い煩う必要はない」と言われているのです。この心を以って、

本気で全能主を見上げて行くなら、全能主はその者を放っておかれません。これがクリスチャンの

生き方です。ある意味でこれは究極の信仰の生き方です。そして、私達はそれを知るチャンスを、

今頂いているのです。ですから、聖書の御言葉を文字通り受け留め、本気でその生き方を始め出すの

です。(ちな)みに、思い煩いからの悟りを求めたのは、お釈迦さんもそうでした。釈迦は、「思い煩い

からの解放は、欲望という人間の業を捨てること」だと説いています。釈迦は、その苦悩からの悟りを

開いた人です。しかし、釈迦は死んだ後の世界までは説いていません。なぜなら、全ては、無であると

悟ったからです。或る意味で、釈迦の悟りと、クリスチャンの悟りは似ていますが、大きく違う点が

あります。それは、釈迦は死んだ後の命のことには全く触れませんでしたが、イエスキリストは、

死んだ後の命の保証を約束しているからです。イエス様は言われました。「あなた方は、心を(さわ)

せてはなりません。・・・わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・わたしはあなた

がたのために場所を備えに行きます・・・そして、また来て、あなた方をわたしの所に迎えます」
と。

此処(ここ)
に大きな違いがあります。


(結)キリストは、天の御国で生きる保証を御自身の贖いによって約束して下さいました。故に、

クリスチャンの生き方は、天に繋がる道です。ですから、本気で聖書を読み、本気で聖書を捉え、

本気で聖書の通りに生きて行くのです。これを信じて始め出すかどうかが、「何事も思い煩うな」

という聖書の約束を味わう者となるか、或いは、地上の生涯だけで終わるかの分かれ目です。この観点

から見て行くと、「全能主の考え方と世の考え方の違いは何か」という事がはっきりと見えてきます。

私達はキリストを信じて、天に繋がる道で生きることを、この地上で証して行く者なのです。


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