2023年10月8日
『罪人であった者を命の道に進ませて下さる全能主に、
献身の心を表わして行く』
マタイの福音書 23:1~12
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(起) マタイ23章でイエス様が「偽善の律法学者、パリサイ人たちよ。あなた方は災いだ」と叱責されて
いる事柄から、「私達自身が偽善の律法学者、パリサイ人だ」と言われている事を正直に認め、「そんな
罪人であった者を命の道に進ませて下さる全能主に、献身の心を表して行く事」を学んで行きたいと思い
ます。
(承)さて、今回、この箇所にも出てくるパリサイ人について調べていたら、「パリサイ派というのは、
彼らがバビロンに捕囚された時に組織された群れである」事が分かりました。彼らは、奴隷としてバビ
ロンに捕らえ移された事によって「自分達はモーセの律法を重んじ、全能主の律法の中で歩んで行く、
選ばれたユダヤの民である」というアイデンティティ(自己の存在証明)を失ってしまいました。その
ような中で、彼らは自分達のアイデンティティを保って生きて行く為に、祭司達(ユダヤ教のパリサイ人
たち)の言い伝えを聞いて、その内容をまとめたのです。それを「タルムード」として、自分達の拠り
どころにし、生きて行きました。ところが、その「言い伝え」の中に「ユダヤ人はゴイム(異民族=豚)
に対して偽証をしてよろしい」と教えている文面があったのです。こんな考え方が、どこから来たのかと
言いますと、まさにアダムとエバを唆して罪に陥れた「蛇・サタン」から入って来たものです。
そして、この偽証する罪が、今日お読みした律法学者、パリサイ人たちの中にあり、その罪をイエス様が
指摘して「蛇よ。まむしの末どもよ」と言われたのです。それは、「彼らは言うだけで実行しない」偽善者
たちであったからです。そして、ヨハネの福音書では、「あなた方の父は悪魔だ」(ヨハネ8章44節)と
明確に断罪し、彼らの偽善を非難されたのです。
(転)しかし、実はイエス様が指摘された事は、私達の心の底に潜む偽善に対しても指摘されていることで
あり、それが、アダムの子孫としてそっくりそのまま、私たち中に内在しているのです。つまり、「白く
塗った墓よ、あなたがたの内側は偽善と不法とで一杯です」という指摘は、私達も彼らと同じ「偽善な
嘘つきだ」という事です。どういう事かと申しますと、私達は、口では自分は罪人であると言いつつ、
人前では体裁を繕い、自分の罪を隠そうとしている偽善者であり、嘘をついて自分を守ろうとしている
者だからです。クリスチャンが、罪を認めていますと言う時、口だけのお付き合いで言っていることが
多いからです。もし、本当に罪人であると認めていたら、自分の心の醜さを、一つも守れる部分など無い
はずです。なのに、「自分は正しいことを心掛けて行こうとしているのだから、人から指摘される事は
心外だ」と捻くれて、弁解するのです。しかし、いくら弁解しても、心の中の罪は消えません。
それなのに、私達は人からまともに指摘されると反発し、自分を擁護したくなってしまう、質の悪い
心を持っています。それは、私達の心の片隅にある自分勝手な正義感という「肉の律法」が働くからです。
その「肉の律法」とは、罪人が「正しい事は正しい」と、我を張り、自分は行っていなくても、人に押し
付けようとする自分勝手な正義感のことです。それは、「正しい心で生きて行こうとしているのだから、
自分は間違っていない」と言い張る、人間の奥深い性そのものです。ですから、その正義だと思って
いる部分まで、罪人として否定される必要は無いと、反発の心がいつも出てくるのです。確かに口では
100%罪人だと言うかもしれませんが、本当に100%認めている人はいません。もし本当に100%
認めているなら、「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それをえぐり出して捨てなさい。もしあなた
の右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」と語られたイエス様の言葉をその通り実行して
行く筈です。しかし、それを実行している人は誰もいません。ですから「肉の正義感」に立っている
人は、自分で勝手に、実行もしていない正義感を振りかざして、自分を守っている罪人なのです。また、
たとえ「正義感」があり、子供の頃から培ってきた道徳観があったとしても、それは単なる「自分
勝手な部落主義」です。部落主義とは、その地域特有の自分勝手な地域エゴです。ですから、人の持つ
善悪の判断、また道徳観は、厳密には聖書の道徳観とは違います。この聖書の道徳観は、全能主の考えに
添ったものであり、そこにこそ真の道徳観があるのです。なぜならば、私達の命は、全能主が創られた
命ですから、創造主から独立した善悪は、人間のご都合から出たものに過ぎません。ということは、
全能主の御心に適った行いをしていない以上、その善悪は人間の肉の満足に過ぎないのです。ですから、
聖書に照らし合わせて、自分の姿を正直に見たなら、自分は正しいと言い切れる人は、一人もいない
でしょう。心の内に良心を持ち、正しい事をやろうと心がけているから正しいわけではありません。その
正しさは、全能主から出たものでしょうか。昔から「言うは易く行うは難し」と言うように、
私達は、それらしい事はいくらでも言えますが、それを実行していないのが現実なのです。その姿は、
まさに律法学者、パリサイ人そのものです。
(結)ですから、偽善の律法学者、パリサイ人は、私たち自身なのです。それが分かったら、どんな
理由があろうと、私達は自分を守れません。どこを切っても罪人なのですから。本来なら、こんな
私達は裁かれるだけの者です。しかし、全能主はイエス・キリストを通して罪人を贖うという御業を
して下さいました。このイエス・キリストの救いは、アオリストの過去形の故に、罪人のどこを
切っても、救いの印があるということです。そして、この救いの有り難さが分かれば、自分は偽善な
「蛇、まむしの末だ」という事を、正直にそのまま認めることが出来る筈です。すると、
そのまま自分の罪を認める者に対して、全能主はその心を見て「そこから始めよ」と言って下さの
です。「そこから」というのは、「自分が100%罪人だと分かったところから始めよ」という事
です。それは、自分の力で始めて行きなさいと、言われているのではなく、私達は100%罪人
ですから、自分に望みを置いて努力するのではなく、そこから救って下さったキリストに望みを
置いて、全面的に全能主に成して頂く信仰に立つのです。私達の信仰は、そこから始まります。
どうか、皆さん!ここから始め出しましょう。皆さんは長い間このメッセージを聞き、その通りだと
思ってここまで来た者達です。ならば、メッセージを語っている牧師と一蓮托生です。即ち、
ミュラーさんのように、「全能主だけに頼って行く」という蓮の上に皆が座って、同じ心で
信じて行きましょう。どうか、罪人の自分を見切って、「自分の正義感だけでは、何も出来なかった
者です」と正直に告白し、そして、私達自身が偽善の律法学者、パリサイ人その者でありましたが、
今は、キリストに在って、罪人であった者に生きる道を下さった方に感謝し、全能主への献身の心を
表して行こうではありませんか。
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