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2023年10月15日

私たちの評価は、仕事量ではなく、
「いかに全能主に忠実であったか」による

マタイの福音書 25:14~30


(起) マタイ25章のタラントの譬えから、「私達は100%罪人で、心の中は白く塗った墓のように

汚れています。ですから、自分に頼って全能主の義を表すことは出来ないことを悟り、その上で、


空っぽの器に油を満たして頂き、約束の力を頂いて、全能主の御心を行っていくこと
を学んで

行きたいと思います。


(承)さて、19節を見ますと、「長い月日が経った後、主人が帰って来て、しもべ達と清算をした」

とあります。この「清算」という事は、「私達が(おこな)った行いに応じて、問われる日が来る」

という事です。私達の命は、降って湧いたような命ではなく、自分で造った命でもありません。という

ことは、
「私達の命も、与えた主人が、一人一人の行いに従って精算される日が来る」ということ

です。なぜなら、私たちの命の主人は、私達一人一人に賜物を与え、その賜物に従って働きをしたか

どうかを確かめられるからです。全人類一人一人は、皆違う特徴を持っていて、誰一人として同じ

人間はいません。ですから、皆一人一人が評価を的確になされるのです。ということは、命を与えて

下さった主人の為に使うことをしなければ、精算の時に、この命は無意味な物として捨てられて、

泣いて歯ぎしりするのです。その事が、このタラントの譬えで語られています。ここに出てくる5タラ

ント、2タラント、1タラントというのは、タラントの量を言っているのではなく、5タラントの人は

5タラントの特徴を持ち、2タラントの人は2タラントの特徴を与えられているということです。

しかし、
「1タラントの人は、その1タラントの特徴を与えられていても、使わなかった」のです。

私達は、自分の特徴について、自分では気付いていない場合が多いのです。ですから、一般的にその

特徴というものを自分で探って「自分はこういう事が得意だから、こういう事をやりたい」と言って、

自分勝手な道を追求していきます。しかし、それではタラントを与えた方の意向を汲み取ったことには

なりません。私達は被造物ですから、私達を創って下さった全能主が、どういう目的を持って私たちに

命を下さったのかを知り、それに答えていく必要があります。その為には、主人の声を聞く、「聞く耳」を

(つちか)って行かなければ成りません。私たちは、自分の好きな事、嫌いな事という自分勝手な思いを

持っていますが、その思いを砕いて「空っぽの器」にし、命の主の御心を聞き分けていくべきなの

です。なぜ「空っぽの器」にすべきかといいますと、全能主の御心を素直に受け留める為には、自分の

()
が邪魔になるからです。そして、
最後まで「全能主に聞いて行く」という歩みをして行けば、

命を閉じた時、「これで良かったのだ」と、振り返る事が出来るからです。
もし、その心を持って

御国に入る事ができれば、私達は泣いて歯ぎしりする事はありません。むしろ、全能主から
「お前に

命を与えた意味があった。良い忠実なしもべよ!」
と言って頂けるのです。

(転)では、私達がそこに行きつく為にはどうしたら良いのでしょうか。それは、まず自分という者が

どんなに罪深い者であるかを知る事です。実は、その事を知る為に聖書が与えられているのです。

私達は「自分を綺麗に装って、道徳的に生きてきました」と言っても、心の中は白く塗った墓でしか

ありません。その証拠に、人から指摘されたり否定されたりすると、すぐに
むくれたり、()ねたり、

(ひね)くれたり
して反発します。それは、私たちが罪人である印です。この事は、聖書を通して知ら

されます。ですから、聖書に照らし合わして自分の心を見て行くなら、「自分は聖書通りの人間には

なれない。決して正しい生き方が出来なかった」と、思い知らされるのです。そして、100%自分が

罪人である事を思い知った時、
全能主は「そこから始めよ」と言って下さるのです。全能主が「そこから

始めよ」
と言われたことは、「もう自分に望みを置かず、全面的に全能主に信頼して、全面的に全能主に

成して頂く」
という考え方に変えて行くことです。即ち、「自分勝手な主義主張」を捨てて、「全能主の

主義主張」の中で
生きて行くのです。そうして行かなければ、クリスチャンとして、主に従ったことには

なりません。言葉を換えると、すべて「全能主任せ」です。その「全能主任せ」という気持ちを持った

時に、ようやく私達は「空っぽの器」となり、全能主からの導きに対して素直に聞く事が出来るように

なるのです。その素直に聞く心が開かれて行く時、自分自身の特徴が示され、賜物もはっきり理解し、

約束通り力も頂く事が出来るのです。


(結) 私達は、この信仰の世界に入るのです。そして、その世界に入ったなら、1タラントの者の

ように、せっかく頂いたものに対して(ひね)くれてはいけません。私達は、与えられたタラントに

従って、そのタラントを用いて行くのです。5タラントの者も、2タラントの者も、それ以上の成果は

求められていません。それが、命を与えて下さった方の考え方です。人間的には、5タラント頂いた

者は、5タラント以上の成果を獲得したいと思うでしょう。しかし、全能主の御心は、5タラントの

者は、5タラントで良いのです。2タラントの者は、2タラントで良いのです。それが献身ということ

です。しかし、1タラントの者は、何もしませんでした。この1タラントの人は、心を用いなかった

からです。ですから、
「不忠実な者よ!」と言われて、退けられたのです。もし、1タラントの者が、

1タラント(もう)ければ、「良い忠実なしもべよ!」と言われ、
同じ評価を与えられたのです。「私達の

評価は、仕事量によって決まるのではなく、『いかに全能主に忠実であったか』によって決まる」


という事です。ですから、私達は「どこまでも全能主にのみ、心を向けて行く」という信仰を働かせて

行きましょう。私達は100%罪人で空っぽの器の者ですから、たとえ怒られようが、頭ごなしに

られようが、それでも全能主に信頼してやって行くのです。即ち、自分の身を全能主に委ね、

全能主に明け渡して、全部全能主にやって貰うのです。どうか、私達はこの信仰の姿勢に確信を持って

立ち、どこまでも全能主に心を注いで行く信仰者になって行こうではありませんか。


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