2023年10月22日
『自分を信じるのではなく、全能主を信じる心を徹底し、
信仰を完全なものにする』
使徒の働き 3:11~16
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(起) 使徒行伝3章16節の「その信じ仰ぐ心が、あなた方の目の前で、完全に癒やしたのです」という
御言葉から、「自分を信じるのではなく、全能主を信じる心を徹底し、私たちの信仰を完全なものにする」
事を学んで行きたいと思います。
(承)さて、16節を見ますと、「甦られたイエスを、この男が信じたことによって癒やされた」とあり
ます。この足なえの男は、初めはペテロとヨハネに施しを求めていました。しかし、ペテロたちが「金銀は
私には無い。しかし、私が持っているものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの御名によって、立って
歩きなさい」と言われた時、その言葉をそのまま信じ、彼は立ち上がりました。おそらく、私達がイエス
様を信じた時と同じように、聖霊様の助けがあって、信じる心を与えられたのでしょう。これが彼の信仰の
スタートでした。そして、その続きを見ると「甦られたイエスは、この男が信じたことによって、あなた方
の目の前で、完全に癒したのです」とあります。完全に癒やされたということは、癒やしも、ただの癒やし
ではなく、完全な癒やしであったのです。それは、「彼の信仰も完全であった」ということです。何故、
完全な信仰と言えるのでしょうか。それは、信じればイエスを殺した祭司長や律法学者たちから排斥され、
爪弾きにされるというリスクを負うことを受け止めた上での信仰であったからです。彼は、そのリスクも
含めて信じる心を大胆に表しました。私たちは救いを信じた時、初めは「信じたら、御利益に預かる」
と思って信じました。しかし、「完全な信仰」とは、信じたなら、その後に起こってくるリスクも含め、
それを受け止めて信じることです。ですから、「キリストの救いを信じた者のその後の『信仰の姿勢』は、
自分では出来ないと思うことでも、主を信じた者であるなら、あえてリスクを負ってでも、従って行きます」
と、心を定めた信仰の決断をすることです。これが、私たちの「完全な信仰」です。先程も申し上げたように、
私達が救い主を信じる信仰の始まりは、聖霊の助けがあって、信じさせて貰いました。しかし、信じた後は、
既に信じた者として、自分の意志で信じるかどうかを決めるものです。信じるという事は、全能主が言われる
事に素直に従って行く事です。その信仰を表して行くなら、私達の信仰は確立し、完全になって行くの
です。
(転)しかしながら、私達には、全能主の言葉に対して素直に従って行くことのできる事と、そうでない事
があります。例えば、自分にとって好きな事は誰でもやりますが、苦手な事はやろうとしません。しかし、
自分では苦手だと思っている事でも、全能主の目から見ると、それを行うタラントをすでに与えられている
場合があるのです。ですから、自分ができるかできないかを計算し、「できない」と思うと弱気になり、
自虐的になって、全能主の言葉にそのまま従おうとしないのは、間違っています。先程も申し上げたように、
私達は既に信じた者として、全能主から言われた事柄に素直に従って行く生き方を始めるべきなのです。
従う時は、自分の肉の判断を入れてはいけません。もし自我に留まれば、サタンの思うつぼになり、
不信仰が自分を覆うのです。すると、結局「自分を信じて、全能主を信じた事にならず」サタンの惑わしを
信じることになります。私達は、自分を信じたのではなく、罪深い私達を救って下さるイエス・キリストの
贖いを信じ、何でもおできになる全能主を信じたのです。そのお方を信じたならば、信じた者の生き方が
あるでしょう。その決断は、始めは、たとえ「はったり」でも、「信じてやります」と決めるのです。
絶対に過去の自分自身を見て決めようとしてはいけません。信じる心を持った者に対しては、全能主は
放っておかれず、必ず助けて下さいます。すると、「できないと思っていた事ができた」という経験を
味わって行くのです。その経験を味わって行く事によって、信じる事は「これでいいのだ」という確信を
持てるようになります。それが、私達にとっての完全な信仰に繋がって行くのです。
(結)ですから、私達の信仰を完全なものにするための大事なポイントは、「誰を信じるか」という事
です。私達は、臆病な「自分を信じる」のではありません。信じるのは「全能主」です。何でも
できる全能主を信じるという事は、たとえ「自分にはできない。怖い」と思うようなリスクがあった
としても、信じると決めるのです。自分はいくら弱くてもいいのです。弱いなら、何でもできる強い
全能主に信頼して下さい。この足なえの信仰のように、既にキリストを信じた者として、完全な信仰に
よって、大胆な信仰を表して行きましょう。
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