2023年10月29日
『自分の罪を正直に認め、責任を負って リスクを甘んじていく純な心に立つ』
使徒の働き 5:1~11
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(起) 使徒行伝5章のアナニヤとサッピラの記事から、「自分を誤魔化し、罪の責任を他人に負わせて
終わらせるような生き方に終止符を打ち、自分の罪を正直に認め、その責任を負ってリスクを甘んじて
行く純な心に立つ事」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、使徒たちが聖霊のバプテスマを受けてから、エルサレム教会は、非常に力強くキリストの
復活を証し、そして大きな恵みが、彼ら全ての者の上に臨んでいました。すると、信じた者の群れは、
心と思いを一つにして、誰一人、その持ち物を自分の物だと主張せず、一切の物を共有するようになり
ました。そこで、信じた者の群れの内、アナニヤとサッピラ夫妻は、この流れに沿って自分たちも
地所を売り、その代金を使徒たちの所に持って行ったのです。ところが、彼らは地所の代金の一部を
残して置き、聖霊を欺きながら、恵みの行為に加わろうとしたのです。その行為は、サタンに心を
奪われた夫婦が、二人で示し合わせた欺きの行為だったのです。この誤魔化しは、ペテロたちも
知るところとなり、ペテロは彼らに言いました。「あなた方の地所は、それを売らずに残しておいても
あなた方の物であり、売ってからでもあなた方の自由になったのではないですか、それなのに何故、
あなた方はこのような事を企んだのですか?それは人を欺いたのではなく、全能主を欺いたのです」と。
それは、彼らが聖霊の導きの中で始めた行為を、不純な行為にしてしまったことを、はっきりと裁いた
のです。
(転)全能主は、この人間の不純な行為を嫌われます。この夫婦は、初め聖霊に導かれ、純粋に恵みの
行為として、成そうと思ったはずです。しかし、いざ献げようとした時に、サタンに唆されて、
聖霊を欺くことになりました。彼らは思ったのです。「信じた兄弟たちは皆、持ち物を自分の物と
主張せず、すべてを持って来ているのに、自分達だけが『一部を残しておきました』とは、恥ずかしくて
言えない」と考え、それなら「使徒たちの所に持って行く時には、全財産と言う事にしておこう」と
申し合わせたのでしょう。そして、自分達のメンツを守るために、二人で示し合わせて嘘をついたの
です。ところが、その偽り、嘘、誤魔化しは、すべて聖霊様も知っておられたところです。なぜなら、
聖霊の導きの中でささげることを考えたからです。ですから、本来なら、もし彼らに何か必要性が
あったなら、それを正直に使徒たちに言えば、全く問題なかったでしょう。なぜなら、全能主は、
「たとえ残しておいたとしても、それはお前たちの物ではないか」と言って下さるからです。それな
のに、自分たちのプライドのために、正直に言わなかったなら、それは誤魔化しと欺きになります。
何故なら、自分を犠牲にして献げるというのは、全能主への純な行為そのものです。それなのに、
偽りを純な行為に見せかけることは、全能主への欺きになります。
このことは、私たちの信仰にも
言えます。キリストは、十字架を前にして、本音から出た言葉として正直に「この杯を取りのけて
下さい」と言われました。しかし、同じ本音から出た霊の心として「もし、呑まずに済まされない杯
ならば、御心のままに為さって下さい」と、あえて損得を超えた決心の中で、御自分の命を差し出され
たのです。イエス様は、肉の本音を退け、純な霊の行為として成されたが故に、十字架の贖いによる
救いが実現されました。それは、「キリストの身代わりの贖いのみが、生まれながらの罪人を救う道」
であったからです。ある意味で主が、肉の弱さを出されたことは、人前で表す恥です。しかし、その
正直な心が、イエス様御自身が自分を庇わず、自分のプライドに立たない純な心の現れの証で
あったからです。
(結)このように、私達も「純にならなければならない」という理由があるのです。それはどういう
事かと申しますと、「キリストが純な決断によって救いを下さった」のに、私たちは自分勝手に、
アナニヤとサッピラのように「自分の面子を保って、如何にも純な心で従って行きます」などと、
嘘と欺瞞と欺きで、答えて行ってはいけないからです。少なくとも、私たちは、
生まれながらに「白く塗った墓」ですから、その罪人の事実を隠して、主に従って行くことは出来ま
せん。私たちの偽りのない姿は、生まれつきに罪人で、肉の弱さを持っている者です。しかし、その肉
の弱さを持ってはいても、キリストの救いを知ったからには、肉の弱さ、肉の感情を砕いて、純な霊の
心を表して行くべきです。ですから、罪の告白をして、責任を取るという事は、正直に罪人である
事実を認めて、罪の結果である恥は受けて行くことです。だからといって「私たちはもう罪を犯さない
人間になれる」ということではありません。むしろ、命閉じるときまで、現実には罪の肉体は持った
ままですから、罪を犯すようなことばかりです。それでも、決して自分を庇わず、ありのままの
罪人として、正直に告白し、罪のリスクは負って行くべきです。その告白の行為として、私は事件の
後、警察に行って正直に話しました。しかし、それをしていない者もいます。それは、自分の罪の
責任を取っていないという事であり、聖霊を欺く事です。これは、「できる、できない」の問題では
なく、そういう場面では、たとえ恥をかいても、損をしても、惨めさを味わっても、私達は自分の
犯した罪の責任のすべてを負うべきです。自分にはそこまでの事はできないと、逃げて行く者に、
キリストの救いがあると思ってはいけません。キリストご自身が、「自分にはできない」という思いを
持たれても、決して逃げることは為さいませんでした。逃げたいという思いを砕き、全てのリスクを
負って、全能主が負わされた使命に従われたのです。ならば、「私達が自分を守り、自分だけが惨めな
思いをしたくない」という、自分勝手な理屈は通用しません。私達は、へりくだり、自分が悪かったと、
正直に自分の責任を認めて、全能主からどんな仕打ちを受ける事になったとしても、「どんな裁きでも
受けます」という覚悟を持って従って行くべきです。その心を持つことが純です。それは、全能主の
前に牧師がやり続けて来た事です。その正直さを持って、初めてイエス様の救いにあずかれるのです。
もし今それを逃げて行くなら、最後には、誤魔化してきた自分の罪が666の前で全部暴露されます。
そして、666は「自分で始末しろ」と言うのです。そこに救いはありません。しかし、損得抜きで、
純な心で従うならば、全能主は「イエスのアオリストの贖いの故に、わたしはお前を赦す」と言って
下さいます。どうか、自分を魔化して、自分の罪の責任を他人に負わせるような卑怯な生き方は止めま
しょう。私たち罪人が全能主と繋がる一面は、「自分が間違っていました。自分が悪いのです」と、
全部自分が負うところにあります。この事が分かったら、自分の罪に対して正直になり、誤魔化しさえ
しなければ、全能主はイエス様の故に、私達を受け留めて下さいます。これが、キリストの救いです。
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