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2023年11月5日

『律法から解放された者として、
全能主に感謝する純な信仰を大胆に表わして行く

使徒の働き 11:1~10


(起) 使徒行伝11章とガラテヤ書3章から、「律法から解放された者として、全能主に感謝する純な

信仰を大胆に表して行く事」
を学びたいと思います。


(承)さて、この使徒時代というのは、長い間律法の下にあったユダヤ人が律法から解放され、イエス・

キリストによって、罪の赦しの中に入って行く、過渡期の時代でした。そんな中、ペテロはとても考え

られないような幻を見ました。それは、「天から下って来た風呂敷の中に、四つ足の動物、野の獣、

這う物、空の鳥が入っていて、それをほふって食べなさいと言う声が聞こえた」
という内容でした。

ペテロは、ガリラヤの住人で、ほぼ異邦人の地として扱われていた所に住んでいましたから、それほど

厳格なユダヤ人ではありませんでした。それでも、しきたり(慣例(かんれい))だけは重んじ、形式上では

戒めを守って行く意識の中で生活していました。ですから、「私は今までに一度も汚れた物や清くない物を

口にしたことがありません」と答えたのです。ところが、「地上のあらゆる種類の四つ足の動物や獣たち」

とありますから、そこには、汚れた動物や、食べてもいい清い動物も混じっていたと思われます。それは、

選ばれた民であるユダヤ人と、汚れた民である異邦人とが混じっていた状態を意味しています。それに

対して、全能主が「わたしが清めたものを清くないと言ってはならない」と言われたのです。即ち、

ユダヤ人も異邦人も全部含めて、「わたしが清めたものである」という真理がこの中にあったのです。

言い換えるなら、全能主はこの時点で律法を廃止し、全能主自身の口で、「旧約の律法からの解放」を

宣言された
という事なのです。


(転)では、律法とは一体何なのでしょうか。まず、ガラテヤ3章6節を見ますと、「アブラハムは

全能主を信じた。それによって、彼は義と認められた」
とあります。アブラハムは、律法を完全に守って

義と認められたのではなく、全能主を信じる信仰によって義と認められた人です
。また、10節には

「律法の行いによる者は、皆呪いの下にあるからです。なぜなら、『律法の書に書いてある一切のことを

守らず、これを行わない者は、皆呪われる』と書いてあるからです」
とあります。即ち、律法の下に

あって祝福を受けようとすると、その全てを守らなければならず、もし一点でも律法を犯せば呪われて

しまうという事です。
そんな事は、私達にはとても出来ません。ですから、「律法によっては、全能主の

御前で義と認められる者は一人もいない」(11節)と、言われているのです。そして、21節を見ますと、

「もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義は確かに律法によって実現されたでしょう」

とあり、実際問題、律法によっては人を生かす事はできなかったのです。なぜなら、「律法はすべての

人を罪の下に閉じ込めた」
からです。ですから、人間は皆、全能主の前に律法を守る事ができず、罪の

下に閉じ込められ、雁字搦(がんじがら)めになってしまったのです
ところが、罪に雁字搦(がんじがら)になって

しまった私達のために、イエス様が罪の債務証書を十字架に釘付けにして、全ての罪の負債を無効にされ

ました。
そのおかげで、私達は律法の世界から解放されたのです。それは、私たちが自分の努力でした事

ではなく、イエス様の恵みの行為によって為された事です。その恵みを信じる行為は決して律法では

ありません。ただ、その事をして下さったイエス様に感謝し、喜んでその事実を受け取る信仰なのです。

ですから、私達は信仰というものを律法的に(とら)えてはいけません。律法的に考えて「やらなければ

いけない」という戒めを自分に課せて行くと、私達の信仰は死にます。信仰とは「やらなければいけない」

というものではなく、感謝と喜びから出てくるものです。即ち、「全ては、イエス様のアオリストの贖いの

おかげであり、ただ、ありがとうございます」という感謝の心を進んで表して行く純な心こそが、信仰

なのです。

(結)全能主は、「清くない物でも食べなさい」と言われました。即ち、もう律法に捕らわれ

なくてもいいという事です
ロマ書10章4節には、「キリストは、全て信じる者に義を得させる

ために、律法を終わらせられたのです」とあります。
この聖書の真理に心を向け、確信を持ちま

しょう。私達は、律法によって救われたのではなく、100%完全にイエス・キリストの恵みに

よって救われたのです。ならば、単純に、イエス様に100%感謝する心を表して行けばいいの

です。自分自身の中にほんの少しでも律法が入って、その「律法の(もと)にいないと、駄目だ」

という思いが入ってくると、100%信じる方向に心を向けられません。律法は違反を示すだけの

ものですから
、私達は、もう律法から離れて、イエス・キリストを信じる信仰によって生きるの

です
。私達は罪人で、100%イエス様の恵みによって救って頂いた者です。ですから、「イエス

様の贖いを頂いた事は本当に光栄(こうえい)です」という気持ちになったなら、私達は主に(へりくだ)って、

信仰を全うして行くでしょう。それ以外に望みを置くものがないからです。どうか、律法から解放

された者として、全能主に感謝する、その純な信仰を大胆に表して行こうではありませんか。


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