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2023年11月12日

人間的な知恵に依らず、全能主の善悪の判断を仰いで、
残りの生涯を主に委ね、主に信頼していく生き方

創世記 2:15~17、3:1~13、22~24


(起) 創世記2章と3章を通して、「人間的な知恵に依らず、全能主に善悪の判断を仰いで、残りの

生涯、主に委ね、主に信頼して行く生き方に変えて行くこと」
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、今日お読みした箇所は、私達が何度も読んできた所で、「ここが人間の罪の原点だ」

という事は誰でも知っています。しかし、今回、創世記をもう一度、(さら)な気持ちで読んで行った時、

改めて教えられた事がありました。それは、3章22節からの御言葉です。「ヤハウェなる全能主は

言われた。『アダムは今や、善悪を知る者となって、我々の一人のようになった。』」即ち、このことが

原因となって、アダムとエバは「エデンの園から追放される処分」を受けたのです。つまり、「食べては

いけない」
と言われていた「戒め」に背いたからだけではなく、「善悪を知る木の実を食べた事」に、

その処分の原因があったのです。ところが、私たちの社会では、善悪を知る事は大切な学びで、小学校

から大学に至るまで、まさに善悪を知る力を身につけるために学んで行きます。
それなのに、アダムと

エバにとっては「物事の善悪を知る事」が悪であったことになりますから、混迷してしまいます。では、

全能主の前では、人が善悪を知る者となったことが、どうして悪かったのでしょうか。
実は、「善悪を知る

木の実を食べる前のアダムとエバは、ただ全能主が言われる事を聞き、素直に従って行く中で生きて

いました
。」しかし、サタンに騙されて善悪を知る木の実を食べた事によって、「自分で物事を考えて

判断する者となり、自立して自分の都合で善し悪しを決めて、全能主に従うか、自分の考えに従うかを

決めるようになったのです。」
そして、自分の判断で生きる事を始めたカインは、アベルを殺そうと

する考えも持つようになったのです。こうして、人間が罪の中で手に入れた判断を使い始めた時に、

全能主に従う事が難しくなってしまったのです。
即ち、アダムとエバが「善悪を知る木の実を食べた

瞬間」
に、人は全能主の前に悪賢い罪人となり、自分勝手な善悪の判断をするようになったのです

ですから、私達は生まれた時から、自分の事しか考えない、損得勘定の激しい、悪賢さが染みついて

いるのです。赤ちゃんでも、子供でも、泣いて誤魔化そうとしたり、怒られる事から逃げようとしたり

します。その悪賢さは、私達自身が学習して獲得したものではなく、生まれつき持って生まれた罪の

性質です。それが今現在の私達の姿であり、善悪を知る木の実を食べてしまった事の結果なのです。

(転)では、私達はどうしたら良いのでしょうか。アダムとエバがサタンから騙されて食べてしまった

物を、今更(いまさら)吐き出す事は出来ません。はっきり言って、取り返しがつかないことをサタンの誘惑

によって犯してしまったのです。そこで、アダムとエバは、少なくとも「食べてしまった」という

行為に対して、全能主に謝る必要があったはずです。しかし、彼らは自分の犯した背きの罪を他人の

所為(せい)
にして、自分を守ったのです。その判断が、人が手に入れた善・悪の判断です。「食べては

いけない」と言われた事をしてしまった行為は、「自分が間違っていました」と認めるべきですが、

それさえ出来ませんでした。こんな取り返しの()かない(そむ)きの罪を犯した人間は、それ以後

どのように、善悪の判断をしていけば良いのでしょうか?
実は、パウロはロマ書7章で告白して

いますが、いくら正しい判断をしようと思っても、出来ない惨めな自分を告白しています。「私は、

善をしようとする意志はあっても、それをする力が無いのです。というのは、私がしたいと思う善を

行わないで、したくない悪を行っているからです」(7:18~19)と。
エバが食べる前は、素直に

従う事が出来ていたアダムたちでしたが、自分の判断を使うようになった後では、素直になれず

「自分が間違っていました」
とも言えなくなっていたのです。これは、もう最悪の状態を死ぬまで

味わって行くしかありません。
しかし、罪によって手に入れた善悪の判断を正しく用いていく道が

開かれました。
それは、私たちの判断をイエスキリストに委ねていく生き方です。」キリストを

信じる前は、自分の判断は自分勝手なものでしたが、キリストの救いに預かった時、私たちは自分の

考えを入れ替え、全能主の判断に任せていく方法に切り替えていく事が出来るようにされたのです。

この方法は、キリストの救いがなければ、出来なかったことです。即ち、私達は、「キリストによって、

もう一度考えを入れ替えて、初めからやり直すチャンスを頂いたのです。」
それは、「罪によって手に

入れた判断を()めて、自分は、生まれた時から悪賢い人間でしたから、もう自分の判断に頼りま

せん」
「私は、イエス様の救いを頂きましたから、考えを入れ替えて、本気でイエス様に委ね、

信頼して行く考え方に切り変えて行きます。」
という、新たな知恵で生き始める道です。ただし、

私達は死ぬまで罪の肉を抱えていますので、肉の思いと御霊の思いが、ぶつかり合います。しかし、

私たちは「たとえ、主に信頼する事を馬鹿にするサタンの声が聞こえても、霊で始めて行くことを、

はったりを()かせてでも()って行きますので、どうか宜しくお願いします」と、祈っていくの

です。これが、私達の新たなスタートです。


(結)私達は、「善悪を知る木の実を食べた子孫」として、「自分の判断で生きて行くのは当たり前だ」

と思っていたのですが、それは大きな間違いでした。ですから、もう自分の知恵を使い、そこで答えを

出そうとする事を止めます。もし、肉の判断に留まるならば、ただ肉の思い煩いの中で苦しむだけです。

ですから、「私達は、人間的な知恵に依らず、全能主の善悪の判断を仰いで、残りの生涯、主に委ね、

主に信頼して行く生き方に変えて行くのです。」
どうか、肉の判断は呪いだと(わきま)え、この信仰の

判断を、勇気を出して始め出しましょう。


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