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2023年11月19日

信じる信仰に飛び込み、信仰の当事者となって、
日常生活の中でどこまでも主に信頼する当たり前の生き方

創世記 6:1~13


(起) 創世記6章11~12節のノアの大洪水より、「信じる信仰の中に完全に飛び込み、信仰の当事者

となって、日常生活の中でどこまでも主に信頼して行く事が当たり前となって行くこと」
を学んで行き

たいと思います。


(承)さて、ノアの大洪水が実際に起こったという事は、世界中にある地層を見れば明らかです。

一般の未信者や進化論者は、地の塵が少しずつ積もり、長い時間をかけて地層ができたと考えています。

しかし、もし長い時間をかけて地層ができたとしたら、世界中の地層が、グランドキャニオンのような

綺麗な水平地層にはなりません。なぜなら、地層が出来上がるまでに、雨が降ったり、風がふいたり、

人がその上を踏んだりして、表面がデコボコになって行くはずだからです。グランドキャニオンの

ような綺麗な水平地層は、一瞬のうちに全てが水で覆われて、かき回された泥水が「水のふるいわけ

作用」によって堆積し、出来上がって行くからです。そのような水平地層が世界中の至る所にあり、

魚が小魚を(くわ)えている化石が出てくるのは、ノアの大洪水によって瞬時に泥の中に埋まっていった

生き物が、化石となった証拠です。ですから、世界中の水平地層と、化石が爆発的に発見されてくる

現実は、ノアの大洪水によって全世界を滅ぼされたという聖書の記録が実際に起こったという証拠

です。ですから、かつて全能主がこの世界を裁いたという聖書の記録は、この地上にその証拠が残され

ている、間違いない出来事なのです。


(転)では、なぜ全能主は全世界を滅ぼさなければならなかったのでしょうか。それは、創世記6章

11~12節で、その理由が明らかにされています。「世は、全能主の前に堕落し、暴虐で満ちていた。

全能主が地を見られると地が堕落していた。全ての人がその道を乱していたからである」
とあります。

何故そのような世界になってしまったのでしょうか
。それは先週も学んだように、「アダムとエバが

『善悪を知る木の実』を食べて、自分勝手に物事を考え始め、勝手な判断で生き始めたところに原因が

あります。」
人間は、物事を知的に考えれば良い方向に向かうだろうと勝手に想像します。しかし、

現実はそうではありません。パウロもロマ書7章で告白していますが、「たとえ善をしたいという

思いがあっても、それを行う事ができず、逆に悪を行ってしまう自分がいる」のです。ですから、

人間が知識を得たからといって、必ずしも正しい方向に向かうわけではありません。その為、全能主は

ノアの洪水以後にも、なお物事の判断を人間に任せておく事が出来ず、人に律法を与えました。

そして、「わたしが与えた戒めを守りなさい。そうすればお前たちを祝福する。しかし、戒めを守らな

ければ、お前たちは裁かれて呪われる」
と言われて、善悪を全能主が明確にされたのです。しかし、

人の判断が罪に影響されるようになってしまっていた為、戒めを与えても結果的には守る事ができま

せんでした。ですから、今日の私たちも、(いく)ら「こうします、ああします」と反省して、正しい

方向に意識を向けたとしても、所詮は、自分勝手な損得で決めてしまうのです。そこで全能主は、

人を罪の呪いから救い上げるために、その手段として御子イエス様をこの地上に遣わし、御子が人の

肉を(にな)って贖いをされたのです。もしイエス様が人の肉を(にな)わず、アダムのように罪のない

人をもう一度(かたち)(つく)って、完全な人として世に送られたなら、その贖いの死は他人事のように、

人間の罪とは一切関わりのないものになってしまいます。ところが、御子はマリヤを通し、私達と同じ

罪人の肉を担って(ロマ8:2)来て下さったが故に、それは、正真正銘、私たち罪人のための身代わり

の死であったのです
。即ち、イエス様の死は、私達の過去・現在・未来(アオリスト形の死)に至る、

全ての罪を背負い、私たちの罪を贖うために、純粋な気持ちで命を捨てて下さった救いなのです。

ならば、私達も純粋な気持ちでイエス様に全面的に信頼して行くべきです。即ち、この救いの世界に、

完全に飛び込むのです。そこに飛び込まないという事は、イエス様の贖いの世界ではなく、「自分自身の

努力の世界で何とかします」と言う事になります。
しかし、自分自身の努力では、もう何もできません。

私達の判断は、暴虐に満ち、いつも悪の方に傾いて行くだけで、自分の中からは正しいものが、何一つ

出てこないのです。それなら、もう自分の世界ではどうにもならないのですから、イエス様を信じる

世界でしか生きる所がありません。ならば、そこに飛び込んで、どこまでも主を信頼し、主に成して

頂くのです(詩篇37篇5節)。
こんな有難い救いがあるでしょうか。この救いに与った者に対して、

イエス様は「これからは、自分で一生懸命やれ」と言われているのではなく、「わたしが成し遂げるから

信頼して来い」と言って下さっているのです。ならば、そのイエス様のお言葉を信じて、「自分は何も

できませんでしたから、そのように言って頂ける事は感謝です。これからよろしくお願い致します」と、

どこまでもイエス様に心を向けて行くべきです。


(結)この世では、自分がやらずして、誰が他人のためにしてくれることがありましょうか。常識的に、

全部自分に()かっているのです。しかし、すべて私達は完璧にできるでしょうか。いいえ、「出来な

かった」というのが、正直な過去の人生です。ところが、今度は「イエス様が全部やってあげる」と

言われているのです。また、「助けてあげる」と言われているのです。ならば、「自分にできるとか、

できない」という律法ではありません。イエス様が成し遂げて下さるのですから、イエス様をどこまでも

信じて行くのです。「どうか、この本気で信じる信仰の中に飛び込みましょう。そして、信仰の当事者

となり、日常生活の中でどこまでも主に信頼して行く事が当たり前の歩みとなって行きましょう。」


それが、信仰の一本道を通す純な信仰のあり方です。悪魔は「そんな甘いものではない」と、私たちに

語りかけて来ます。
だからこそ、この信じる信仰に立つ事は意味があるのです。どうか、どこまでも

主に委ね、信頼し、主に成して頂く生き方を、本気で始め出しましょう。


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