2023年11月26日
『本気で信じたなら、本気で信じる信仰を最後まで通す、一本道』
第Ⅱペテロ3:1~2
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(起) 創世記9章4節の御言葉から、「本気で信じたなら、本気で信じる信仰を最後まで通す、一本道」
を学んで行きたいと思います。
(承)さて、今日お読みした創世記の御言葉には、「肉をその命がある間に、その血と共に食べてはなら
ない」とあります。また、新約聖書ではエルサレム教会の決議文の中に「血を避けなさい」という
勧めが出て来ます。この「血を避けなさい」という勧めが、どういう意味で語られているのか、理解し
難い所でしたが、創世記9章4節で語られている御言葉を見る時、その意味がはっきりと解釈
出来ます。即ち、「肉の命がある間に、その血を食べてはならない」ということは、血はその物の命
ですから、生き血を吸う事はユダヤ人に禁じられていました。しかし、命が亡くなった後の血は肉と
同じですから、問題視されていなかったという事です。そこで、私達日本人の場合は、馬刺しや魚の
刺身のように、肉を生で食べる習慣があります。しかし、それは死んだ後の物ですから、問題にする
必要はありません。しかも、新約ではそれが、ユダヤ人たちのつまずきにならないために「避けなさい」
と言われているだけで、律法ではなかったのです。その理由は、新約の場合、キリストの贖いがあり
ますから「モーセの律法では義とされる事の出来なかった全ての事について、信じる者は誰でも、
このイエスによって義とされるのです」(使徒13:39)という真理の故に、クリスチャンは、旧約の
律法や戒めには縛られてはいないのです。そればかりか、私たちを縛るものは一つもないという救いの
中に入れられました。これは何という感謝な事でしょうか。
(転)こういう訳で、新しい約束で救われたクリスチャンは、恵みと真理が実現したので「真理は、
あなた方を自由にします」(ヨハネ8:32、16:13)という恵みの中に置かれて、律法から自由
の身とされたのです。ロマ書にあるように、「律法ではできなくなっている事を、イエス様が成し遂げて
下さった」(ロマ書8:3)からです。ですから、私達は律法と戒めを守る事によって生きて行くの
ではありません。むしろ、イエス様の贖いを信じる信仰で生きて行くのです。ですから、私達はこの
真理の上に堅く立って、信仰を働かせて行くのです。
旧約の時代では、人の悪が地にはびこり、心に思い巡らす事がいつも悪い事ばかりに傾くため、
全能主はノアの大洪水によって全ての住民を裁かれました。ところが、洪水後も、人間はまた同じ悪の
道を歩むようになって行きました。そこで、全能主は人に律法を与え「わたしが与えた戒めを守りな
さい。そうすればお前たちを祝福する。しかし、戒めを守らなければ、お前たちは呪われる」と言わ
れて、善悪を明確にされたのです。しかし、当時のイスラエル人は「分かりました。守ります」と声を
上げたのですが、その通り出来なかったのです。かえって、金の子牛を造って自分たちの神とし、偶像
礼拝の罪を犯しました。そして、イスラエル人は、どんどん悪に傾き、全能主に逆らい、キリストを
十字架に付けて殺してしまったのです。そして、今なお逆らい続けています。それは、イスラエル人
だけでなく、異邦人である我々も同じです。ですから、これで分かるように、人間は善悪を知る木の
実を食べ、自分で善悪を判断して、正しい道に向かって行くつもりが、かえって悪の道に向かって
行ってしまったのです。したがって、知識を得て全能主のようになれると思ったことが、大きな間違い
だったのです。
(結)このように、罪の中に落ちた人間は、考えを入れ替え「主に委ね、主を信頼し、主に成し遂げて
貰う」という道しかないのです。それが全能主が用意して下さった最後の人間の生きる手段です。
ならば、この地が悪に満ちて行く現在、全能主がこの世を裁かれるまでの残りの生涯を、どこまでも
イエス様を信じ、信頼し、主に全てを委ねて、生きて行くべきです。初めから、自分の頭で善悪を
考えて、独り立ちする事が間違っていたからです。今、この世界はどんどん終末に向かい、世の終わりが
近づいています。その為、今まで隠されていたサタンの策略がドンドン公に現れ始めています。
ですから、私達はその中を通って行くほかありません。しかし、たとえ、そのど真ん中に置かれたと
しても、信仰の純を通して行くならば、私達には救いがあります。信仰の純とは、損得勘定で決めずに、
主を信じる心を最後まで通す事です。しかし、その一本道は、私達にとって常に良い事ばかりではあり
ません。最後には666の前に出て、命を奪われるからです。「獣は、聖徒達に戦いを挑んでこれに
勝つ事を許された」(黙示13:7)とあります。しかし、信仰の一本道を通す者は天に繋がります。
なぜなら、イエス様も損得を捨てて一本道に進み、私達の為に命を捨てて、救いの道を開いて下さった
からです。ならば、信仰による私たちの死は敗北ではなく、ルシファーに信仰を突きつけて「勝利を
得る者」となるのです。私たちは「本気で信じたなら、本気で信じる信仰を最後まで通す一本道を
貫き」、「最後まで信仰を通してよかった」と、天で大いに喜ぶ者とされようではありませんか。
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