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2023年7月9日

信仰が成熟した者は、向上心を持って歩む

第Ⅰコリント人への手紙 2:1~10


(起) 8節にある「全能主の奥義の知恵」について学び、「信仰が『成熟した者』は、どこまでも

『向上心』を持って歩むべきこと」を、学びたいと思います。

(承)さて、私たちは、成熟した者として「全能主の奥義の知恵」を理解したいと思います。結論から

言いますと、それは「アオリストの救い」です。それを理解するために、例として6章20節を

見てみます。「あなた方は代価を払って買い取られたのです。」とありますが、これは、「イエス

様が、ご自身の命という代価を払って、罪人の
私たちを買い取って下さった」という救いの真理です。

しかし、この救いの真理をクリスチャンであっても、すぐ
に理解して、「感謝です」と言うことは、

なかなか難しいことでしょう。それは自分が実際に「買い取られた」という
経験がないからです。

つまり、自分が経験していないことを過去形で断言されても理解できないのです。しか
し、ここに「全能

主の奥義の知恵」があるのです
。この「買い取られた」という言葉は、アオリストの過去形で表現

されています。それはただの過去に起こったことを指し示す時制ではなく、現在の自分に起こっていなく

とも、現在の状況如何にかかわらず、自分
は「買い取られてしまった」ということを意味する、ギリシャ

語独特の文法表現としての時制です。即ち、「実際に自分が
買い取られたという経験がなくとも、

過去に起こった出来事によって、実際に私たちの上に起こった事実とし捉えて行く、ギリシャ語の表現」

です。これがアオリスト形の意味するところです。では、何故アオリスト形の時制が使われたかといい

ますと、2千年前のキリストの贖いが、ギリシャ語の時制で表現されなければ、今日の私たちにも

適用されるものであることを、明らかに出来ないからです
。即ち、今現在の私たちが「代価を払って

買い取られた」という経験を、実体験できなくても、キリストによって既に成された救いは、時代を

超えて信じる
者に有効であることを示すのが、アオリスト形なのです。ですから、救いは信じて

受け取れば、誰でも救われた者となる
のです。このアオリストの救いのお(かげ)で、過去・現在・

未来に至るまで、キリストの救いを信じた全世界の人々に対して、救いの効力がある事実が示め

されているのです。
これが全能主の奥義の知恵です。しかし、この奥義の知恵は、生まれながらの

人間が、肉の感覚で理解しようとしても無理です。なぜなら、全能主の
なさることは、まさに「目が

見なかったもの・耳が聞かなかったもの・また、人の心に思い浮かんだことのないも
の」だからです。

しかし、私たちが、全能主の側に立って、「見て・聞いて・心に受け止めた」時、「全能主が成し

下さった救いは、ここにあるのだ」
と悟ることができます。そして、「感謝します」と信じる事が

出来るのです。
このように受け止めることが出来たのは、私たちが全能主の側に立って理解出来る

ように、助けて下さった聖
霊の働きであったからです。それは、私たちの信仰が、人の知恵による

ものではなく、「御霊と御力の現れ」であり、「全能主の奥義の知恵」として、信じる者に与えら

れるからです。


(転)では、私たちが、アオリストの救いの奥義を理解したなら、どのように信仰が成熟し、成長

して行くのでし
ょうか。それは、どこまでも「向上心を持って歩み出すようになる」ということ

です。なぜなら、私たちの救いが自分の努力によるものではなく、すべて全能主が為して下さった、

キリストによるアオリストの救いだからです。この奥義を理解したクリスチャンは、「信仰が成熟

した者」として、どこまでも「全能主を信頼し、常に『向上心』を持ってキリストに在って前向き

な生き方をして行くようになるのです。
即ち、私たちの信仰の歩みは、全能主に徹底して信頼し、

全面的に全能主に成し遂げて貰う生き方に、変わって行くのです。私たちは、自分に根拠を置くと、

自分の失敗、過ちを見て、また自分の中の弱さや無力さに捕らわれて、すぐに「ダメだ」という


気持ちになり、簡単に後ろ向きになっていきます。しかし、主に信頼する者は、全能主に根拠を置いて

いますから、現在の自分の状況如何によって(あきら)めるということはしません。
何事においても、

最後まで「主に信頼し、主が成し遂げて下さる」という御言葉に懸けて行くのです。全能主は、

こうした前向きな信仰の姿勢を喜ばれ、
アオリストの救いに基づいて、助けて下さるのです。ですから、

自分に根拠はいらないのです。私は、今もな
お、体に痛みを抱えています。この病に関しては、病院に

行っても、注射を打っても、薬を飲んでも、リハビリをし
ても好転しません。それでも(あきら)めない

という気持ちを持って、前向きに考えています。それは、「必ず、全能主に癒してもらうのだ」と

信じているからです。即ち、私の信仰は、現在の自分の状況をみて判断しているのではなく、主が

癒して下さるまで、この状態にあっても(あきら)めずに、前向きにやって行こうとする信仰です。

そうすれば、必ず「主が成し遂げて下さった」ということを、味わうことができるからです。


(結)ですから、私たちは、絶対に(あきら)めません。そして常に向上心をもってやっていきます。まさに

「後ろのも
のを忘れ、前のものに向かって懸命に努力し、キリスト・イエスによって上に召して

くださる全能主の栄冠を得るために、ひたすら目標を目指して走って」
(ピリピ3:13~14)

いるのです。これが成熟した者の考え方です。
決して、自分で(つか)み取ろうとするのではなく、

「主が成し遂げて下さる」という御言葉を信じ、一途に励むので
す。どうか古い自分に戻らないでくだ

さい。むしろ、自分の意志で、全能主の為さる事を見・聞き・心に留めて行く
と定めて下さい。

そして、徹底的に(あきら)めず、どんなことにも手を抜かず、成熟したクリスチャンとして「探り極め

行く、向上心」を持って
この「全能主の奥義の知恵」を極め尽くして行きましょう。


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