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2023年7月23日

クリスチャンの
アガペーの愛で生きるプライド

第Ⅰコリント人への手紙 2:1~10


(起) 第Ⅰコリント12章~13章を通して、「私たちは、キリストの身体を構成する各器官であり

一人一人が、全能主に選ばれたパーツとして、クリスチャンとしてのプライドを持って生きて行くこと」を

学んで行きたいと思います。


(承) さて、第Ⅰコリント12章の中に書かれている内容は、「クリスチャン一人一人が、キリストの

身体を構成する一つ一つの器官であり、パーツである」という事です。キリストの身体を構成するというと、

少し分かり(がた)いのですが、それを人間の身体に置き換えて考えてみると分かり易いと思います。即ち、

人間の身体には色々な器官がありますが、見栄えのしない体内にある臓器は大切なものばかりで、細かい

パーツを含むとその重要さに驚きを覚えます。例えば、血液中を移動している赤血球というパーツは体中に

25兆個もあり、血液容量の約半分を占めています。そして、地球二周半もの長さがある血管の中を

通って、身体中に酸素を運ぶ大切な役割を担っており、また、酸素を運び終えたら、今度は身体に不要な

二酸化炭素を受け取って、肺でガス交換をし、それを外に排出する仕事もしているのです。普段は全く

目には見えず、見栄えのしない器官かもしれませんが、実に私たちの知らないところで一生懸命働いて

くれています。ですから、命を創られた創造主の目から見るならば、身体の中の器官には、何一つ無用な

器官はなく創られています。それは、私たち一人一人の命も同じで、クリスチャン達は、キリストの身体を

構成する重要な器官として存在させられているのです。そんな私たちは、自分の側から見ると、ちっぽけで

役立たずのように見えてしまいますが、全能主の目から見るならば、実に重要な命として選ばれているの

です。だからこそ、私たちは「イエス様が代価を払って買い取って下さった」のです。この「買い取られた

命」というと、如何にも奴隷のように買い取られたかのように思えるかも知れませんが、そうではなく、

「イエス様が御自分の命と引き換えにして、買い取って下さるほどの価値のある者だった」
ということ

です。だから、救われた一人一人は、自分という者の存在が、実に価値があるものとして見られているの

です
。先週も学んだように、私たちがイエス様を信じたのは自分の力ではありません。「今まで見たこと

のない、聞いたことのない、心に思い浮かんだことのない」、そういうアオリストの救いを受けたのは、

私たちが信じることができるように助けて下さった聖霊様がいたからです。ということは、全能主が一人

一人を心に留めて、選び取って下さった者であり、全能主の手の中に迎え入れて下さった者たちです。


この点において、私たちは自分を何一つ卑下してはいけません。
むしろ、アオリストの救いを頂いて、

生かされている自分の価値というものを自覚し、プライドを持つべきです。
私たちの命は、そんじょ

其処(そこ)()のどうでもいい命ではないのです。


(転) そのことが分かったら、私たちの内に、「主の為に生きよう」という新たな意識が生まれてくる

筈です。ただし、それは、自分の持っている能力の中で努力して成果を出すことではありません。先程も

お話ししたように、私たちはキリストの身体を構成する一人一人として、全能主に選んで頂き、イエス・

キリストによって買い取ってもらった者たちです。ならば、あとは買い取って下さったお方が、私たちを

正しく使って下さる筈ですから、そのお方に委ね、信頼し、お任せすれば良いのです
そうしたら、その

お方が私たちを使って、成果を出して下さいます。
だから、自分という者を卑下して、いじけたような

考えを持つことは、間違っています。
逆に、生かされている自分自身の価値に、プライドをもって、どこ

までもアガペーの一方通行の愛を積極性に働かせて、行動して行くべきです。即ち、私たちは、救われた

者としての歩みに、アガペーの愛で生きるプライドを持つべきです。
その歩みが、どういうものなのかは、

13章にアガペーの愛について記されています。13章の愛は、全て一方通行のアガペーの愛です。即ち、

「自分はこれやりました、あれやりました」と、右の手でしたことを左の手に教えるような、「お返しを

期待したギブ&テイク」の愛ではなく、むしろ、自分がやったことを忘れてしまう、一方通行の行為として

の愛を現して行くことです。
「何故、そのような生き方ができるのか」と言いますと、それは「主が成し

遂げて下さる」という約束に基づいて、「主がして下さる行為」だからです。即ち、「私たちが自分の

努力の成果として現した行為」ではなく、「主が成し遂げて下さったから、出来た行為」であるからです。

だから、「やってあげたのだから、今度はしてよ」という取引根性を嫌い、捨てて行くのです。この格好

良さが、クリスチャンのプライドです。
また、怒られた時、すぐ弁解するのもアガペーの愛ではありま

せん。
弁解というのは、「自分を認めてもらいたい」という気持ちから出た、現れです。ですから、

むしろ、怒られたら、いちいちそれに反発する必要はなく、怒られたことをただ一方的に受け止めたら

いいのです。
私たちは、まずはそこから始めなければなりません。クリスチャンの愛の形は、実に、

こういうところから生まれてくるのです。


(結) どうか、このアガペーの愛の生き方を始め出しましょう。なぜなら、「私たちが救われたことは

本当にすごいことで、価値のあることだ」という事実がありますから、救われた自分の救いにプライドを

持つことです
。そして、そんな自分が全能主の前に歩んで行く時、その歩みにおいてもプライドを持つ

ことです
。即ち、自分というものを簡単に卑下して、すぐ弱気になり、後ろ向きになってしまう姿勢は、

救われた自分を否定することです。
それは、私たちを「価値あるものとして買い取って下さったお方」に

対して失礼です。どこまでも、全能主に選ばれた一人一人として積極的な信仰を持ちクリスチャンとして

のプライドを持って生きて行こうではありませんか。


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