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2023年7月2日

自分の意志による決断』
~自分を徹底的に否定して、自分の十字架を負って従って行く~

コロサイ人への手紙 2:6


(起) 「キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに在って歩みなさい」という御言葉を

通して、
自分を徹底的に否定して、自分の十字架を負って従って行く」ということが、信じる者が通す

筋であり、その生き方をするには、「自分の意志による決断が必要である」ことを学んで行きたいと思い

ます。


(承)私たちは、元来、自分の思い通りに、自分の願望を満たそうとする身勝手な者で、常に損得

感情で動いています。その損得勘定は、蛇がエバを騙して罪に落とした時以来、人間の心の奥底に

秘めた思いとして子孫に伝わっています。しかし、その身勝手な思いが通らないことは、子どもの頃

から学ばされて来ました。それでも、その身勝手な思いは、なくならなかったのです。それは、自分の

命の(ぬし)、常に自分だったからです。しかし、「キリストの救いを受け入れ、信じた時」に全能

主の存在を知り、自分の命が全能主によって創られ、この命は全能主のものであることを知った時に、

「自分の命は、主のために使いたい」と願いました。それは、「全能主を中心に生きていくことが、

自分の本当の生き方なんだ」
と分かったからです。それ以後「キリストに在って歩みなさい」という

御言葉通りに、歩み出すはずでした。しかし、実際の生き方が、自分中心から全能主中心にガラッと

切り替わらなかったのです。実は、この生き方を始めるには、自分の「意志」による決断が必要だった

からです。
即ち、「自分の意志」を働かさずには、何も始まらなかったのです。この「意志」というのは、

「聖書の理屈に立つ」ということであり、自分の考え、自分の感情に従う「意思」のことではありません。

では、聖書に基づく理屈とは何でしょう。それは、「命の全能主が実在する以上、全能主のお考えに

立って歩むことが筋」
ということです。ですから、私たちが「キリストにあって歩む」ためには、

「聖書の理屈に基づいて
自分の生き方を選択し、決定する」という「自分の意志による行動」

必要なのです。


(転)では、ここで、同じ信じる者となったクリスチャンでも、「キリストに在って歩むと決断した人」

と、「まだ決断をしていない人」との違いは何なのかを、考えて行きます。「キリストにあって歩む」と

決断した人の場合は
、「キリストに在って歩む」という、その意志を行動に表します。それは当然

「キリストに在って歩む」と、決めたからです。具体的には、「全ての事を、自分の思い通りにする

のではなく、成し遂げて下さる方の御心に従って、行動して行く」
ことです。例えば、物を購入する時

「私は、自分の思い通りに決めてしまうという思いをセーブしています。自分が欲しいという意思が

働いても、果たしてそれが、自分のためになるのか、主の御心を確かめてから行動を取るようにして

いるからです。私は衝動買いをせず、必ず時間をおいて決めることにしているのです。もちろん、すぐに

決めなければならない時もあります。しかし、すぐ決める時でさえ、『主にあって』という思いは、

なくなりません。そうでないと衝動買いをして、しっぺ返しを食らうからです。それでも、自分の

小遣いの範囲でなら、衝動買いも主は目くじらを立てられることはありません。それは、人間にとっては

少しぐらいの買い物はストレスの解消に役立つからです。しかし、人に迷惑をかけるようなことになる

場合には、必ず慎重に御心を聞き、確信を持って実行に移すことにしています。」その為には、主が

御心を明らかにして下さるまで、じっと忍耐して待つことが肝要です。
しかし、「キリストに在って

歩む」と決断していない人の場合は、
たとえ主の御心を確かめた場合でも、途中から自分の思いで

行い、自分で手っ取り早く行ってしまうのです。そういう人は、たとえ聖書を読んでいても、自分の

単なる感想と自分勝手な反省で終わるだけで、聖書に基づく決心をしようとせず、結局自分の肉の

考えを持ったまま、未信者時代と同じ感覚で行動するのです。それでは「キリストを信じた人」の

歩みにはなりません。私たちは、主にあって歩むという決断をしないままの歩みでは、最後は自分に

頼り、「主に委ね切って、キリストにあって歩む」という生き方は出来ないのです。むしろ、キリスト

を信じた者なら、たとえ自分の願い通りに、成し遂げてもらう事が出来なかった場合でも、「徹底的に

自分を否定して、自分の十字架を負って」
主の御心の中に歩んで行くのです。それが、「たとえそうで

なくても」(ダニエル3:18)ということです。私たちはキリストと共に死んだ者なのですから、

どこまでも主に従う道を選択することが信じた者が通す筋です。それには、「私たち自身の信仰の

決断が必要」
です。


(結)私たちの周りには、自分の損得で牧会をする伝道者がたくさんいます。結局自分の損得で教会

運営をしている牧師の姿を見て、「主のためと言いながら、結局は自分のためにしている。おかしい

じゃないか」と思いながらも、私は「自分はどうするのか」を決めていませんでした。しかし、ミュラー

さんの証を読んだときに、「あ、出来るんだ」と思いました。「本当に、主が成し遂げて下さる」と

信頼して行く、「その道が現実にあるんだ。」と知った時、「だったら、自分もやるぞ」と決めたの

です。今思えば、それが「空っぽの器」の始まりでした。その時から私のメッセージはこの一点に集中

しています。ですから、どうか皆さんも決めて下さい。そして、その歩みが通るかどうか試して下さい。

つまり、「主に従う生き方を、曖昧(あいまい)していてはいけない」ということです。私たちには、必ず、

「信仰に立つか、不信仰へ逃げ出すか」という選択の時が来ます。それは患難時代です。その時には、

どちらかに、絶対に決めなければならない決断の時が来るのです。しかし今、「主にあって歩む」と

決めていれば、
患難時代に、全能主を裏切って信仰を捨てるということにはならないでしょう。患難

時代は信仰によって通って行く道です。この決断の先にあるのは、「勝利を得る者に約束された聖なる

都エルサレム」
です。どうか、「主に懸けていく」という信仰に立って、「自分の意志による選択と、

意志による決断」
をしましょう。


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