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2023年6月25日

信じる心とは、主権者であられる全能主に根拠を置くこと

ヘブル人への手紙 11:23~31、イザヤ書 44:25~45:3


(起) へブル書とイザヤ書を通して、「全能主はすべてを手の中に収める主権者であり、ご自分の

働きを成すために、信じる者だけではなく、未信者さえも巻き込んで用いる方であること」を学び、

「信じる心とは、この全能主に根拠を置くことだ」ということを学んでいきたいと思います。

(承)さて、このヘブル書11章の「信仰によって」という箇所を読むとき、信仰によって歩んだ人は、

ただ信じる者だけが用いられていたように思いがちですが、実はそうではありません。全能主は実に、

信じる者だけを用いて働きをするのではなく、その周りにいる未信者や、一般民衆をも巻き込んで、

その働きを成し遂げていかれます。
例えば、23節には、モーセの両親は、主を信じる心ゆえにモーセを

生かし、育てたとありますが、そのあと、大人になるまで
モーセを育て上げたのは、後に敵となるパロの

娘でした。また、31節を見ると、ヨシュアの斥候が無事に帰還することが出来たのは、異邦人の女

である遊女ラハブの助けがあったことが分かります。イザヤ書24章をみると、もっと明確なことが

書かれています。ここではクロス王という異邦人の王が出て来ます。昔、イスラエルはバビロンの王

ネブカデネザルに滅ぼされ、イスラエルの人々はバビロンの国に連行され、捕囚の民とされました。

そしてエルサレムの神殿は破壊され、その中の宝物蔵の全てが略奪されてしまったのです。ところが、

その後バビロン帝国は、ペルシャ帝国の王クロスによって滅ぼされてしまいます。すると、このクロス

王は、バビロン帝国の奴隷であったイスラエル民族を解放し、エルサレムに帰還させて、神殿の再建を

許すのです。しかもその時には、イスラエルから略奪してきた神殿の財宝を全て持たせて、再建の費用

として与えたのです。さらにエルサレムの街も城壁も作れと指令するのです。実に不思議な事ですが、

そのことがイザヤ書44章28節から、45章3節までに記されています。「わたしはクロスに向かっては

『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては『再建される。

聖殿は、その基が据えられる』と言う。」
つまり、彼がしたことは一見不思議なことですが、実は、

そのようにする為に、クロス王の心を動かした、ヤハウェの存在があったのです。26節には「わたしは、

わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる
」とあります。イスラ

エルには、バビロンで70年間苦しみを受けると預言されていました。
そして、その70年経った後に、

彼らはヤハウェの言葉通りに自分の国に帰って行ったのです。これが全能主のわざです。
全能主は

信じる者たちだけに力を与えて、信じる者たちだけを使って、御心を行うというのではなく、未信者

をも巻き込んだうえで、全能主の計画が実現されて行くのです。
なぜでしょうか。それは24節にこう

あります。「ヤハウェはこう仰せられる。『わたしは万物を造ったヤハウェだ。わたしはひとりで天を

張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。』」と。
全能主は、宇宙の空間を創り、絶妙なバランス

で地球をその空間の中に置き、その地球に人間を住まわせたお方です。そのお方は、当然のごとく、

未信者の世界全部をご自身の手の中で動かすことがお出来になります。
だからこそ、全能主は未信者

をも使って、御業を行われるのです。


(転)このように、すべてを手の中に収め、事を行われる全能主に信頼を持つことが、私たちの信仰

です
自分の信じる心に根拠を置くことが信仰ではありません。ですから、私たちには自分に裏付けが

なくても、全能主に根拠を置いて行動するのです
。私は、この教会を建てる時、何の裏付けもありま

せんでした。教会には、わずかな積立があるのみでした。しかし、不思議なことに、未信者の建築会社

の方が積極的に動かれ、また銀行の支店長も、資産の裏付けのない私に対して、住宅ローンでやりま

しょうと、簡単に判を押されました。全能主が未信者を動かされたのです。私が自分の裏付けをもって

お願いした訳ではありません。向こうから進んでやってくれたのです。私たちには、能力の裏付けも

なければ、財産の裏付けもありません。むしろ罪の負債があるばかりです。
しかし、私たちは、全能主

のために働く力の裏付けがなくとも、全能主を信頼するがゆえに、「やります」と積極的になって

行けるのです。


(結)このように、私たちは信仰というものの見方、考え方を変えていく必要があります。私たちの

信仰と、全能主に対する誠意が、全能主の御業を成すのではありません。
私たちの信じる対象である

全能主が、全部なさるのです。だから、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」ということが現実的

に起こるのです。その証がこのイザヤ書に書いてあります。自分の信仰について、自分に根拠を置くの

をやめましょう。
ミュラーさんは、自分に根拠を置いたわけではなく、一日一日の裏付けのない中で、

孤児を育てて行きました。本当の裏付けは全能主でした。ですから、私たちも、全能主を自分の裏付け

として「これが信仰だ」という証しを、立てて行こうではありませんか


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