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2023年6月18日

どこまでも主に頼り、
主がやって下さるまで信じて待つ生き方

ヘブル人への手紙 7:11~28


(起) ヘブル書7章、8章から、全能主の律法を心に書きつけて頂き(8:10)、「どこまでも主に

頼り、主がやって下さるまで信じて待つ」
という生き方を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ヘブル書には、「大祭司」についての役割が詳しく説明されています。その大祭司の役目を

一言で表現するなら、「罪人である人間と全能主の間を取り持つ仲介者」ということが、一番分かり易い

定義です。そして、ヘブル書の中には、地上の大祭司と、天の聖所に入られた聖なる大祭司イエス様との

違いについて書いてあります。まず、地上の大祭司は、レビ族のアロンの末が立てられると、律法で

定まっていました。
この大祭司の役目は、年に一度、至聖所に入って、民全体の罪と自分自身の罪のために

生け贄を献げることです。それが地上の大祭司の務めです。ところが、イエス様の場合、「全能主の誓いを

もって大祭司とされた」(7:20)方で、イエス様は毎年ではなく、ただ一度、完全な生け贄をささげ

られて、私たちの罪の贖いを完成されました。それが、イエス・キリストの十字架です。そして、この時

から律法の定めが廃棄されました。なぜなら、イエス様はレビ族ではなくユダ族でしたから、律法の定めに

よって大祭司になられたのではなく、全能主から特別に任命されたメルキゼデクのような大祭司として

立てられたからです。どういうことかと申しますと、メルキゼデクという大祭司は、地上の大祭司が

立てられる前に、既に全能主の大祭司として役目を持っていた方であり、父もなく、母もなく、ただ

全能主の子のような祭司であったのです。それは、イエス様が真の大祭司として立てられる為の雛形(ひながた)

あったのです。そこで、イエス様がメルキゼデクのような大祭司として、十字架上で贖いを成し終えた時、

ご自身の命によって完全な生け贄を献げられたので、地上の聖所と至聖所を分ける幕が()(ふた)つに

引き裂かれ、それ以後、地上の幕屋は破棄され、大祭司が至聖所に入って生け贄を献げる必要がなくなり

ました。即ち、イエス様が、永遠の贖いを全うされた為、律法の定めを廃棄されたのです。それ故に、

イエス様が大祭司として完成して下さった十字架の御業は、イスラエル人のためだけのものではなく、

律法の外にいた異邦人のためでもあり、全世界の全ての人たちのための贖いの供え物であったということ

です。しかも、それは、アオリストによる救いであり、過去、現在、未来に至るまで、永遠に有効な

ささげものだったのです。
ですから、過去において犯した、自分が忘れてしまったような罪にも、また、

現在の罪にも、そして、これから後に犯してしまう罪にも有効なのです。こうして、イエス様は救いを

完成なさいました。それ故に、全能主は「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけ

よう」と言われました(8:10)。
ここで言われている「全能主の律法」とは何かと申しますと、

「全能主の国と全能主の義を、まず、第一に求めなさい」という戒めです。その思いを、私たちの心の

中に書きつけて下さるのです。
即ち、「そうしなければならない」という戒めの律法ではなく、私たちの

心の内側から、「主のために生きたい。主に使って頂きたい」という思いが湧き出てくるような心を

私たちに下さったということです。


(転)では、その思いを私たちの心の中に書きつけて頂くために必要なことは何でしょうか。それは、

私たちの心の中にある、「こうしなければならない」という思いや、「全能主の前に受け入れられたい」

という雑念をゼロにして、心を()(さら)にする「空っぽの器」です。
そのためには、「自分は罪人で、

自分に頼ることは一切できません」という事実を認めることです。
私たちは死ぬまで罪人ですから、「全能主

のためになることをしたい」といくら思っても、その通りにはできません。しかも、自分自身の心さえ

自分の思い通りに使えないのです。実に、私たちはそのような身勝手な者で、どうしようもない心を持った

罪人なのです。ですから、自分で自分の心の中に「こうします」と書きつけることはできなかったのです。

だから、全能主に書きつけて頂くのです。即ち、「全能主を第一にして行く。とにかく主に信頼して、主に

成し遂げて貰う」という心を書きつけて頂くのです。
私たちの生活の中では、困ったことが日々起こってき

ます。しかし、主に信頼し、主が成し遂げて下さる約束があるのですから、自分が全部背負わなくても

いいのです
律法というのは、自分が負いきれない荷を負って行く世界です。ところが、私たちは律法から

解放されましたので、「自分で背負え」とは言われていません。むしろ、イエス様が「わたしの荷は軽い。

だから、わたしの所に持って来なさい」と言って、私たちを導き、助けて下さるのです。そのようにして、

イエス様は常に全能主と私たちの間に入って執り成しをして下さる仲介者なのです
なぜなら、イエス様は

永遠に生きておられ、祭司の務めを持ち続け、全能主の許に近づく者たちを、いつでも救うことができる

からです。
(7:24~25)主を信じた者は、この御言葉を実際に味わい、「このように主が助けて

下さった」という経験を証しして行くのです。


(結)イエス・キリストのアオリストの救いは、過去、現在、未来まで、永遠に有効であり、その

救いを信じた者には、「主に信頼しなさい。そうすれば主が全部成し遂げて下さる」という約束が

あります。だから、自分で手っ取り早くやってしまいたいと考えてはいけません。どこまでも主に

頼り、主がやって下さるまで、信じて待つのです。
どうか、自分自身の心を(さら)にして、全能主の

律法を白紙の心に書きつけて頂き、この生き方を始め出しましょう。


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