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2023年6月11日

信仰の一本道を貫き通すこと

ガラテヤ人への手紙 5:1~12


(起) ガラテヤ5章1節の御言葉から、「自分に頼らず、どこまでも主に頼り、主に成し遂げて貰う」

という
信仰の一本道を貫き通すこと」を学んで行きたいと思います。

(承)さて、5章1節には、「キリストは自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。

だから、堅く信仰に立って、二度と奴隷のくびきに繋がれてはなりません
」とあります。「奴隷の

くびき」
とは、「律法のこと」であり、律法とは、「これをしたから、これを下さい」というギブ

アンドテイクの世界の事です
。この律法の世界で生きて行くことは、一生涯、自分の行い次第(しだい)

「救われるか、救われないか」が決まります
。だから、常に全能主に「受け入れてもらえるか、

或いは、拒否されてしまうのか」を、心配し続けなければなりません。また、人の目が気になり、

人に取り入ろうとするような生き方になってしまいます。そこには、安心できる心の自由はありま

せん。しかし、「キリストは自由を
得させるために、私たちを解放して下さった」とあります。

どういうことかと言いますと、キリストの救いというものは、
私たち自身の行いにはよらず、キリ

ストの一方的な愛によって成されたアオリストの救いですから、過去、現在、未来に至るまで有効

なのだという事です
。しかも、これは信じる者に約束された救いであって、決して私たちの努力や

行いによって救いが左右されるものではありません。ですから、一重(ひとえ)に、キリストの愛を信じて

受け取る時に、
救いが実現するのです。なぜなら、キリストは、律法を廃棄されましたので、キリストを

信じる者は、アオリストの贖いに
よって救われ、律法から解放されるからです。このように、律法から

解放されたクリスチャンは、「これはできたが、
あれができなかった。あれはできたが、これができ

なかった」と、一喜一憂して悩む必要はありません。また、「律法の
世界に身をおいて、誇ってもいけ

ないし、また律法の世界で自信を失って落ち込む必要もないのです。」
更にまた、「他人を律法で

縛り、批判し、裁いてもいけません。」
なぜなら、クリスチャンは、自分自身の行いによって救われた


ではなく、ただキリストを信じ仰ぐことによって救われたのですから、他人のことを「あれやこれや」と

批判する権利が
ないのです。


(転)それでは、信じた者は、具体的にどのような生き方をしていけばいいのでしょうか。それは、「全能

主を信頼し
全能主に成し遂げて貰う」という生き方を味わって行くことです。その根拠は、ローマ書

17
節にあります。「全能
主に受け入れられた人は、信仰によって生きる」とありますので、「とことん、

主に信頼して信じて行く」
というのが、私たちの信仰の歩みです。だから、私たちはここから絶対に

()
れてはいけません。即ち、「自分という者に根拠を置くような物の考え方に立ってはいけない」

ということです。例えば、私たちは過ちを犯すと、怒られて落ち込み、反省をして失敗を取り戻そう

としますが、それはどこまでも自分に頼ることで、反省というのは、「これからこうして行きます」

と表明し、自分に律法を課せて、自分の正しい行いを根拠にして、受け入れて貰おうと志すこと

です
それは律法の支配に逆戻りすることです。ですから、もし、クリスチャンが、過ちを犯した

ならば、その犯した罪の事実を
ありのまま認めて、「自分が悪かったのです」とへりくだって受け

止め、また、信じて歩む生き方に切り替えて行けば良いのです
。このような前向きな反省なら正しい

のです。ところが、一般的な反省は、「やりますから赦して下さい」
というギブアンドテイクによって、

自分の義を楯にして、もう一度、人に受け入れられて、認められようとする()り方ですそれは、

裏を返せば、自分の罪を心底認めてはおらず、失敗を取り戻して、自分のプライドを保って行こうと

する
高慢な()り口です。それは、全能主が一番嫌う罪人の遣り方です。なぜなら、それは自分の

非を認めず自分の行いで罪を帳消しにすることだからです。
もしそれが出来るのなら、キリストが

命を差し出して、人間の罪の贖いをする
必要はなかったことになります。しかも、私たちは「こう

します、ああします」と、立派な表明をして赦して貰おうと
しますが、それが実際にできた試しが

ありません。罪深い人間にそんな力はないのです。だから、そんな律法的な物の見方や考え方で、

自分を立てようとしてはいけないのです。むしろ、心底、過ちをありのまま認めてへり下り、心を

切り替えてキリストに依り頼み、新たな信仰心で前向きに歩み出すことです。要するに、律法を

自分に課せる
のではなく、先ほども申し上げたように、キリストの一方的な愛によって成されたアオ

リストの贖いに感謝し、キリストの
救いは、過去、現在、未来に至るまで有効ですので、自分の力に

頼って、「御霊で始まったものを、肉で完成しよう
としてはいけないのです。」どこまでも、「全能

主に受け入れられた人は、キリストを信じ仰ぐことによって生きるのです。」
それは、キリストを

信じた者は、キリストと共に死に、キリストと共に生きるからです。このように、私たちは、自分の

行いによって生きることから解放され、律法の戒めから自由を得るために召されたのですから、主に

頼って生きて行く献身の生涯が相応しいのです。

(結)このような訳で、私たちは「主に受け入れて貰おうとか、認めて貰おうという思い高じて、

律法を背負って果たそうとして来たのですが、とても負い切れませんでした。」
ですから、その事実

を徹底的に認めて、どこまでも
罪人の自分を徹底的に否定して、キリストに頼って生きて行くように

切り替えて行くべきです
「出来もしない自分に律法を課せて、受け入れて貰おうとするのは、

聖書に反した生き方」
ですから、律法によって認められようとする生き方は、完全に間違っている

ことを認めて、お手上げしましょう。そして、聖書は、「自分に負いきれなかった律法
から解放され

た者として、キリストに在って自由な生き方をして行きなさい」
と勧めているのですから、「聖書に基づいた

考えによって自分に根拠を置かず、キリストだけに頼った生き方をして行けばいい」という、安心感

の中で生きて
行きましょう。私たちは、その信仰の自由を得るために選ばれ、イエス様のアオリスト

の救いに預かったのです。
ですから、どこまでも自分に頼らず、「主に依り頼み、主に成し遂げて

貰う」という、信仰の一本道を貫き通して行こうではありませんか


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