2023年6月4日
『律法から解放された者として、
キリストを信じ仰ぐことによって、生きていく』
ガラテヤ人への手紙 2:11~21
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(起) ガラテヤ2章の御言葉、特に「私は、全能主に対して生きるために、律法によって律法に
対して死にました」という御言葉から、「律法から解放された者として、キリストを信じ仰ぐことに
よって、生きて行く」ということを学んで行きたいと思います。
(承)さて、ガラテヤ書2:16に「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・
イエスを信じる信仰によることを知って、キリスト・イエスを信じたのです」とあるように、人が
義とされるのは自分の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によることを知って、私たちも
信じました。しかし、私たちは「信じたから」といって、「罪人では、なくなった」という訳では
ありません。どこまでも、罪人であるという事実は何一つ変わっていないのです。なぜなら、キリ
ストが再びおいでになった時に、初めてキリストの姿と同じ姿に変えられる(ピリピ3:20~21)
のであって、それまでは罪人のままだからです。このような罪人のままの現実を抱え込んでいる
私たちは、いつも悪魔の訴え掛けに晒されています。悪魔は罪人のままの私たちに、「それでも
クリスチャンか」と、律法を使って責め立てて来ます。即ち、悪魔は道徳的な歩みを私たちに押し
付け、「罪人のままではダメだろう。それでは未信者と同じではないか。罪人のままでクリスチャン
として通用するのか」と訴えて、私たちを責め立てて来ます。その訴えを聞くと、「やっぱり行いが
必要だ」と律法に逆戻りして、「正しい道に歩むべきだ」という思いに駆り立てられてしまいます。
そして、再び出来もしない律法に苦しんで「クリシミチャン」になってしまうのです。まさに、
「信仰によって一旦打ち壊した律法を、再び建てる者となり、自分が律法の違反者であることを
証明することになります」(2:18)。この、「一旦打ち壊した律法を再び建てる」ということは、
律法に対して死んでおらず、「なお律法の下にある」ということです。即ち、「こうしなければ
ならない。ああしなければならない」と自分に課せて、「それをやらない自分はダメだ」という
意識の中で苦しむのです。しかし、次の19節を見ますと、「私は、全能主に対して生きるために、
律法によって律法に対して死にました」とあります。全能主に対して生きて行く歩みは、律法に対して
死んだ者でなければできません。なぜなら、私たちが生きている以上、律法は私たちに対して効果が
あり、律法によって私たちは裁かれ続けて行くからです。しかし、私たちはキリストのアオリストの
救いによって、自分もキリストと共に死んでしまった者なら、律法は死んだ者に対しては効果がありま
せんので、私たちは律法から解放され、律法によって裁かれることはありません。このように、
律法から解放された人でなければ、全能主に対して生きて行くことができないのです。逆に言うと、
「全能主に対して生きて行こうとする人は、自分に対して律法を課せてはいけない」ということ
です。それは全能主の恵みを無駄にすることになりますから(2:21)。なぜなら、もし義が
律法によって得られるとしたら、キリストの死は無駄であったことになるからです。(2:21)
(転)では、私たちはどのように生きて行けば良いのでしょうか?その答えはガラテヤ書2:20にあり
ます。私たちは、現実的には死んでいなくても、キリストによって死んだ者(アオリスト)と見られて
いるのですから、律法の行いによって義を追求していくのではなく、私の中に生きておられるキリストを
仰ぎ見て、「キリストを信じる信仰によって、生きて行く」ということです。即ち、徹底的にキリストに
信頼し、キリストに成し遂げて貰うという生き方が、私たちの信仰の歩みです。私たちはもう律法の
下にないのですから、今まで自分が背負わなければいけないと思っていたものを全部キリストに
お任せして、全てのことをキリストに委ね、信頼して行くのです。それを具体的に始めて行くと、
「本当に主がやって下さった」ということを味わって行きます。このことを一つ一つ体験して行けば、
その経験を以て安心して未信者にも福音を語って行くことができます。即ち、自分にも人にも課せ
ない、そのような福音を語って行くことができるのです。それがこれからの私たちの働きです。
(結)こういうわけですから、私たちは律法に逆戻りしてはいけません。律法を使って私たちを責め立て
てくる悪魔がいることは事実ですが、はっきりと退けて行くべきです。なぜなら、それは信仰に
よらないからです。聖書には、信仰によらないものは罪だとあります。だから、悪魔に唆されて、
出来もしない律法的な生き方に陥ってはなりません。もし、悪魔が来たら、「私は全能主に信頼し、
全能主に成し遂げて貰う。その道で私は行く」と言い切って下さい。そうすれば、私たちは自由に
なります。私たちの行いは、自分に頼った行いではなく、主を信頼して、主を見上げ、主に成し遂げて
貰う信仰の行いです。私たちはその自由を得るために選ばれたのです。即ち、私たちは律法に縛られた
奴隷の子ではなく、生まれる前から全能主に選ばれていた約束の子(ガラテヤ4:30~31)なのです。
どうか、約束の子は、律法から自由にされているのですから、「律法から解放された者として、
どこまでも主を信じ仰ぐこと」によって、生きて行こうではありませんか。
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