2023年5月28日
『律法の違反者に与えられた、信仰による義とは』
ローマ人への手紙 9章~10章
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(起)ロマ書9章31~32節を通して「義の律法を追い求めていたイスラエルは、律法に到達しま
せんでした。何故でしょうか?それは、律法の行いによって得られるかのように追い求めたからです。」
とある御言葉から、「信仰による義」とは何かを学んで行きたいと思います。
(承)さて、ユダヤ人は、全能主から与えられた律法というものに対して誇りを持っていました。特に
パウロさんは律法学者でしたので、律法は彼の人生の全てでした。ところが、パウロはキリストとの
出会いによって、「律法を誇りとしながら、自ら律法に違反して、全能主を侮っていたのです。」
(ロマ2:23)と示され、律法による義から、信仰による義に切り替えられて行ったのです。
ですから、ロマ書9章では「イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、また、アブラハムの
子孫だからといって、その全部が子ではないのです。即ち、生れながらの肉の子が、そのまま全能主の
子ではなく、むしろ約束の子が、子孫として認められるのです」と語ったのです。それ故に、パウロは
この時点で、「律法の下にあるからといって、自動的に全能主の祝福を得るのではなく、キリストを
信じる信仰によって義と認められ、祝福を得るのだ」と言い切りました。その理由は、「彼らは全能
主の義を無視し、自分の義を立てようとして、全能主の義に従わなかったからです」と、はっきりと
ユダヤ人に語っていたのです。では、救いの道はどこにあるのでしょうか。それは、「全能主の選びの
計画の中にあり、行いによらず、召して下さった方による」(9:11~12)と、語っています。
それは、「救いは人間の懸命な努力にもよらず、願いによるものでもなく、ただ、憐れんで下さる全能
主による」(9:16)からです。
(転)では、全能主から選ばれ、全能主の憐みを受けるには、一体どうすれば良いのでしょうか。
それは、「どうすれば良いのか」という行いの問題ではありません。まず、律法の違反者である私たちは、
「生まれながらに罪人である」ことを認め、行いによるのではなく、全能主が用意して下さったイエス
・キリストの贖い、即ちアオリストの救いをへりくだって頂くことしかないのです。そのために、
「キリストは、全て信じる者に義を得させるために、律法を終わらせられた」のです。ですから、
この問いに対する答えは、「ただ、贖いを信じる信仰による」というのが答えです。即ち、「律法とは
別に全能主からの義が明らかにされました。それは、キリストを信じる信仰によって与えられる全能
主の義であって、すべて信じる人に与えられる」とあります。これは、どういうことかと申しますと、
私たちは皆、律法に対しては違反者であることを指し示されていますので、私たちは自分を根拠にした
行いによって、全能主に受け入れられることはできないのです。特に、異邦人は初めから律法の外に
あった罪人ですから、そんな私たちが、自分という者を根拠にして、全能主に受け入れてもらおう
なんて考える事は、初めから間違っていました。だから、イエス様は、律法を終らせて「自分の行いを
根拠にして救いを得る」という道を終わらせたのです。そういう訳で、「イエス・キリストの十字架の
贖いを信じること以外に、救われる道はありません。」そこには、私たち自身の行いは一つも入って
いないのです。イエス様の十字架のアオリストの贖いだけが根拠です。ということは、「人間は、
選びの中にあったイスラエル人であろうが、異邦人であろうが、行いによって救われる者は一人も
いない」ということです。だから、「私たち自身は何もできませんから、全能主がして下さったイエス
・キリストのアオリストの救いを信じる信仰によって、ただ信じるだけで、へりくだりの心を持って、
救いを受け取らせて戴く」のです。これが、罪人の私たちに与えられた憐れみなのです。それが
分かったら、自分自身からは何も出てこないのですから、自分に信頼を置かず、信頼できるお方に
目を向けて、全能主に成し遂げて貰う道に心を向けて生きて行くのが、クリスチャンの残りの生涯です。
ところが、そこでもし、クリスチャンが、「信じたのだから、ちゃんと良い行いの道に行かなければ
ならない」という罠に填り、「少しでも自分の行いによる努力を認めてもらい、そこで満足
したい」という律法主義者に立ち戻るなら、信じる者を救おうとされた恵みを無にすることになり
ます。そして、人に対して誇るようになり、自分の功績に頼るようになるのです。そのように人の
歓心を買おうとして行くなら、キリストとの関係がなくなります。そういう人は、全能主の恵みから
落ちてしまうのです。(ガラテヤ5:4)
(結)ですから、もう逆戻りしないで下さい。私たちは、信じた後も「自分には信頼を置けません」
という事実を正直に認めて、イエス様と全能主に信頼し、主に成し遂げて貰う歩みをしていくなら、
主は喜んで迎え入れて下さるでしょう。しかし、いつも自分自身を見て「自分はダメだ」と言う人は、
駄目な自分で何とかしようと行いに頼って、そこから落ちて行くのです。だから、ダメな自分を
見続けるのではなく、主を見上げ、主が成し遂げて下さることを信じて歩み出すのです。確かに、
私たちは肉にあって生きていますから失敗はあります。しかし、そこで「失敗したからもうダメだ。
この失敗を取り戻さないといけない」と考えるのではなく、失敗をしたら素直に認めて行けばそれで
いいのです。全能主は、私たちが罪人であることをご存知ですから、それ以上のことは求められま
せん。だから、「また、やっちまった」と自分の愚かさを認め、罪人であることを隠すことなく、
心を砕いていくなら、全能主は「そこから始めよ」と言って下さいます。どうか、「何もない者
ですから、へりくだって信じるだけの心」を使って、キリストのアオリストの救いの中に留まり、
自分という者に信頼を置かず、100%全能主に信頼して、主に成し遂げて貰う献身の歩みを全う
しましょう。
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