2023年5月21日
『自分の肉を死に渡し、全面否定した上で、
アオリストの救いに感謝し、 へりくだって主に信頼する献身の道』
ローマ 8:9~13
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(起)ロマ8章13節「もし、肉の思いに従って生きるなら、あなた方は確実に死にます。しかし、
御霊によって、体の行いを死に渡し続けるなら、あなた方は生かされます。」という御言葉から、
「自分の肉を死に渡し、肉を全面否定して、その上でアオリストの救いを感謝し、へりくだって
主に信頼し、献身の道を全うして行くこと」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、今日はロマ書8章から学びますが、私たちが「8章は難しい」と感じるのは、書いてある
内容と私たちの現実が一致しないからです。例えば、13節にこうあります。「もし、肉の思いに従って
生きるなら、あなた方は確実に死にます。」これは、「私たちが頑なに、自分の肉の思いを通して
生きるなら、全能主の命と繋がることができません。その人の霊は、ゲヘナに落とされるという
ことです。」また、一方では「御霊によって、体の行いを死に渡し続けるなら、あなた方は生かされ
ます。」とあります。現実の私たちは、肉の中で生きていますので、肉の思いに従って考えています。
そして、この肉の思いは決してなくなりません。しかし、「その肉は 死んだ者」として、その
御言葉を信じ、受け入れた上で学んでいく時、「御霊によって、体の行いを死に渡し続ける」という
ことは、分かり易くなります。まず、「体の行いを死に渡し続ける」とは、「肉の行いは死んだもの
ですから、肉の性質に捕らわれない生き方をしなさい」ということです。この内容をもっと深く
理解するためには、 まず7章を理解する必要があります。7章では、「律法に対して死んだ者」
(7:4)と記されていますが、それはどういうことなのかと言いますと、今日の法律用語で
分かり易く言い換えるならば、「被疑者死亡」により、「裁判は行われず、判決は下されない」
ということです。即ち、いくら殺人の疑いをかけられている者であっても、死んでしまった者に刑法は
適用されませんので、その時点で裁判は終了します。死んだ者の罪を裁いて、その者を刑務所に送る
ことはできないからです。同じように、私たちが「律法に対して死んだ」ということは、「私たちが
キリストに在って、死んでしまった者なら、肉の行いには裁判が為されず、判決は下されない」ということ
です。即ち、「肉は死んだ者だから、自分の肉に捕らわれるな」ということです。この考え方は、
御霊の法則であり 御霊による真理です。その御霊の法則に基づいて8章13節の御言葉を読む
ならば、意味がよく理解できます。即ち、「御霊によって、体の行いを死に渡し続ける」とは
「自分の肉を全否定して行く」ということであり、「肉に捕らわれず、肉に根拠を置かず、肉の
感情から離れる」ということが、「体の行いを死に渡す」ということです。なぜなら、もう「私たちは
肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務を負っていない。」(ロマ8:12)からです。
この聖書の言葉を素直に信じた者は、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という、霊的な生き方に
目を向けて生きて行くようになります。これが、御霊の法則に従って生きるということです。そして、
その新しい道に歩む事が出来るのが、クリスチャンの救いです。即ち、「肉に心を向けるのでは
なく、御霊が教える法則、即ち、主に信頼して委ねていく道と、主が成し遂げて下さることを信じて
行く道に徹底的に目を向けて歩み出すことなのです。
(転)ところが、ここで気を付けなければならないことは、「体の行いを死に渡し続ける」という
ことを、「御霊によって」ではなく、「肉によって」していくと、人間的に捕らえて「体の行いを無視
してもいいのだ」と思ってしまうことです。即ち、「肉によって、自分の肉は死んだのだと思い込み、
肉にとらわれる必要はない」と言い聞かせて、自分勝手な生き方をすることです。これは、「恵み
だから」と言って、主の恵みを誤解している人々に多く見られる歩み方です。それは大きな間違い
です。もし肉によって、自分の肉を無視して行くと、どうなるかといいますと、「肉のことなんて
どうでもいいと思って、放縦で安易な生き方に向かって行くようになる」ということです。すると、
「罪を犯しても構わない」というような、放縦の世界に行く可能性があります。そうではなく、
正しい御言葉の理解は、「肉は、信頼が置けないので、全否定されていくもの」ですから、「信頼
できるお方に目を向けて、全能主のみに頼って全能主に成し遂げて貰う」という信仰に繋がって
いかなければなりません。そこに繋がって行けば、私たちは安心して「肉を死に渡し続ける」ことが
できます。また、たとえ肉の失敗を繰り返すことがあったとしても、そこには「キリストが、アオ
リストの救いを下さった」ので、何度でも素直に悔いて謝り、キリストを見上げていくという感謝な
道があるのです。その道は喜びに満たされて行く道なのです。そして、私たちは「主に信頼せよ。主が
成し遂げて下さる」という一本道で、全面的に全能主を信頼して行く献身の道を全うしていくのです。
しかし、時には、全能主は、私たちが理解できないようなこともなさいます。だからといって、全能主に
対して不信仰になったり、傲慢になってへりくだりを失ってはいけません。全能主は私たちの命を
創られた主権者です。その主権者に逆らって私たちは生きて行けません。そこで勝手な正義感を
働かせて、全能主の上に立つことは、絶対してはいけないのです。なぜなら、「あらゆる人を偽り者と
しても、全能主は真実な方とすべき」(ロマ3:4)だからです。
(結)どうか、この真理を正しく受け留めて下さい。そして、私たちは肉の過ちを犯した場合には、素直に
認めて謝っていくことは、絶対に必要です。なぜなら、イエス・キリストのアオリストの救いによって、
私たちの肉は死に渡され、霊は義の故に永遠の命の中にありますので、肉の過ちは素直に認めて、
心から謝っていくべきものだからです。これがクリスチャンの正しい生き方です。なぜなら、私たちは、
「罪人でなくなったわけではないし、罪を犯してもいい」ということでもありません。当たり前の
ことのように思うかもしれませんが、ここは私たちが陥りやすい罠ですから、明確に理解しておき
ましょう。そして、「私たちは、自分の肉を死に渡し、自分の肉を全面的に否定し、その上でアオ
リストの救いを感謝し、献身の道を全うして行きましょう。そして、全能主の集大成の働きのために
用いられて行きましょう。」
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