2023年3月19日
『全能主の為に生き、全能主の為に自分の命を使う』
ヨハネの黙示録 3:7~12、ダニエル書3章
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(起) 黙示録3章7~12節の御言葉と、ダニエル書3章の記事から、「全能主の為に生き、全能主の為に
自分の命を使う」ということを学んで行きたいと思います。
(承)さて、今お読みしたのは、フィラデルフィヤの教会に書き送られた内容ですが、この御言葉は、
随分前に私たちの教会に与えられていた御言葉です。何故こんなに素晴らしい御言葉が私たちの
教会に与えられたのか、今回黙示録を読んで気付かされたことがあります。それは、私たちの救いは、
いかにも罪人である私たち個人の救いの為に計画されたように思われていましたが、そうではないの
です。12節を見ると、「勝利を得る者を、全能主の聖所で、柱としよう。彼は決して、二度と外へ
出ることはない」(黙3:12)、とあります。また、「見よ。全能主の幕屋が人と共にあり、
全能主が人と共に住み、人は全能主の民となり、全能主自ら人と共にいて、人の目から涙を全く
拭い取って下さる」(黙21:3)とあります。これは、全能主が、「勝利を得る者」をご自身の
御許に置いて、永遠の交わりの中に入れるという内容です。私たちの交わりとは、「御父と御子イエス・
キリストとの交わりのことです」(第Ⅰヨハネの手紙1:3)。人が創られる以前は、全能主である父と、
その子であるイエス様以外には、交わりの相手がおられませんでした。そこで、人を一旦罪の下に
置き、その中から、キリストの贖いによって救い、全能主とイエス様との交わりの相手として、
ふさわしい者たちを選び取って、永遠の交わりを持ちたいと考えておられたということです。
即ち、全能主は、ご自身と親しく交わる者を、御側近くに置き、永遠に交わりを持つための計画を、
その救いの目的として持っておられたということです。ですから、イエス・キリストの救いは、
単に罪人に永遠の命を与えるだけというものではなく、全能主ご自身が、ご自身と親しく交わる者を
そばに置くという目的があったのです。それ故に、「全能主からの罪人の救いは、イエス様を通して、
全て一方的に成し遂げて下さったものであり、私たち罪人は、畏れ多くも、その恩恵に
あずかった者として永遠にへりくだってその救いを感謝し、同時に、全能主とイエス様との永遠の
良き交わりの中に入れて頂くような、へりくだった民とならなければなりません。」このような訳で、
元々人間の救いは「全能主ご自身の為に計画されたもの」であったのです。それが理解されたら、
私たちはこの地上の残された時間を自分のためではなく、どこまでも全能主の為に使い、全能主に
喜ばれる者として、自分の命を用いるべきなのです。
(転)では、「偏に、全能主が喜ばれる生き方をする」とは、どういうことでしょうか。それは
ダニエル書3章から学んで行きますと、明確になっていきます。当時、ネブカデネザルという王様が
バビロンの国を治めていたのですが、「彼は金の像を造って、『角笛などの楽器の音を聞いたら、
ひれ伏してこの像を拝め。ひれ伏して拝まない者は誰でも、火の燃える炉の中に投げ込まれる』
というお触れを出しました。ところが、当時、捕虜としてバビロンに連れて来られていたユダヤ人
たちは、全能主を信じていたので、金の像を拝みませんでした。すると、ある者が、そのことを
王に訴えたため、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという三人のユダヤ人が王様の前に連れ
出されました。そして、王は彼らに『私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まない
なら、あなたがたは、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、わたしの手から
あなたがたを救い出せよう』と命令を出しました。すると、三人は『私たちの仕える全能主は、
火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。しかし、もしそうでなくても、私たちは
あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません』と答えたのです。すると、
王は怒りに満ち『普通の炉よりも七倍熱くした炉に投げ込め』と命じ、三人は燃える炉の中に投げ
込まれました。ところが、全能主は彼らを守られたため、ネブカデネザル王は、『自分たちの命を
差し出しても、全能主に信頼し、自分たちの全能主の他にはどんな神にも彼らは仕えなかった。
それ故私は命令する。彼らの全能主を侮る者は誰でも、その家をゴミの山とする。このように救い
出すことのできる全能主は、ほかにないからだ』と言って、三人を火の中から救い出したのです。」
私たちにも、この三人のような姿勢が必要です。これから起こってくる患難時代に入って行けば、必ず
このようなことが起こってきます。私たちは、患難時代の中で、密かに生きていたとしても、すぐに訴える
者が出てきて捕えられ、大変な拷問を受けるでしょう。これは想定しておかなければいけません。
しかし、たとえそうなったとしても、「私たちは偶像を拝みません」というはっきりとした態度を表すの
です。そのために、今理解しておくべきことは、先程お話ししたように、「救いは自分自身の為では
ない」ということです。もし、イエス様の贖いが「罪人である自分が救われる為だけのもの」である
ならば、「自分の命を失ってしまったら何の意味もない」という考えに捕らわれて、そんな苦しみに遭い
たくないと思って背教するかもしれません。ところが、私たちの救いが全能主の為であったならば、
どうでしょうか。私たちは、自分の損得で決めることはしません。そして、私たちの命は全能主が
創って下さった命ですから、「全能主の為に、この命を差し出すならば、全能主は私たちを救って
下さる」という望みを持つことができます。なぜなら、「全能主から頂いたこの命を、全能主の為に
正しく使うなら、この命は例え死んでも活かされる」からです。
(結)どうか、このことを理解し、最後まで全能主に従い通しましょう。自分のことは主にお任せ
して、後は、ダニエル書の三人のしもべ達のように、「死に至るまで忠実でありなさい」(黙2:
10)と言われた、全能主の御心のために、この命を使って行くことです。もし、この命が取られる
事があっても、全能主のために命を捨てるならば、捨て甲斐があります。なぜなら、この命は
「全能主が交わりの喜びの為に創って下さったもの」だからです。ですから、そこに焦点を置き、
あらゆることにおいて、「全能主の為に最高の生き方をして行く」という心で、残りの生涯を「全能
主の為に生き、全能主の為に、自分の命を使い尽くして行こう」ではありませんか。
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