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2023年3月26日

全能主に対して尊敬とへりくだりの心を持って従う

黙示録6:9~11


(起) 黙示録6章9節の御言葉から、「私たちの命とイエス様の救いは、私たち自身のためではなく、

全能主のためであること
」を学び、「全能主に対して尊敬とへりくだりの心を持って従って行くこと」

学びたいと思います。

(承)さて、黙示録の6~7章は、患難時代に起こってくることのアウトラインとして記されて

います。なぜ
なら、7章15~17節の内容は、21章3~4節の内容と同じだからです。すなわち、

7章17節には、「御座の
正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いて下さる」と

あり、また、「全能主は、彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さるのです」とありますので、一見

ここで黙示録が終わって
しまってもいいような感じがするのですが、次の8章以降を見て行くと、

涙が流されて行くような内容が
たくさん書かれており、21章に入ってようやく7章の最後の内容が

出てきます。このことから、6章と7章
には、8章から始まってくる患難時代の災いについて大まかな

アウトライン
として記されている事が見えて
きます。その中で、今日お読みした第五の封印には、

小羊の証しのために殺された人々が出てきます。彼らがどういう人々かというと、それは第7章で

長老が答えています。即ち7章14節を見ますと、「彼らは
大きな患難を通って来た人たちであって、

その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」
とあります。この「大きな患難」を通って来た人

とは、15章2節~3節の獣に打ち勝った人々のことです。すなわち、
ここには「獣の前で小羊を

証しし、命を閉じる時まで獣の刻印を受けなかった者たち」のことについて
書いてあります。また

逆に、「獣の刻印を受けた者はどうなるか」ということも記されており、「彼らは全能主の激しい

怒りのぶどう酒を飲まされ、火と硫黄とで永遠から永遠まで苦しめられる」のです。ですから、

私たちにとってサタンと手を結ぶことは、絶対にあってはなりません。


(転)では、獣に対して、小羊の証しをし、勝利を得る者となるために、私たちが今理解しておかなければ

ならないことは何でしょうか。それは、先週も学んだように、私たちの命は、全能主とイエス様との交わり

ために創られた命であったということです(第Ⅰヨハネ1:3)。どういうことかと申しますと、人が

創られる前この世界には全能主とイエス様の二人しかおられませんでし。そこで、御父である全能主は、

イエス様が
楽しく交わることのできる相手を考えて、人を創られたのです。もちろん、全能主ご自身も、

交わりのできる
相手を必要としておられました。その交わりの相手として創られたのが人間です。

ですから、私たちは全能主やイエス様と親しく話し合いができる間柄の者として、全能主によって

創られ、また救いも与え
られたのです。では、全能主やイエス様と親しく話し合いをする時に、私たちに

必要なこととは何でしょうか
それは、全能主に対する尊敬です。私たちが全能主を信じる姿勢が、

全能主を尊敬する心を土台にして信じて行くなら、本物の信仰となり、全能主は、私たちを親しい交わりの

対象として、声をかけて下さるようになります。それこそ、全能主にとって、イエス様の贖いによって

私たちを救いに導いた甲斐(かい)があるというものです。ですから、私たちとイエス様と全能主の間で

豊かな
信頼関係を持つことが重要なのです。そして、もう一つ大事なものは、「私たち自身が罪人で

あったということを自覚し、罪人の人間にふさわしい
へりくだりの心を持つことです。」即ち、ルシ

ファーのように傲慢になってはいけないのです。私たちは、自分が罪人であったという事実を

しっかりと覚え、「こんな罪人を、イエス様の故に罪のない世界に迎え
入れて下さるのですから、

自分自身の身勝手な考えは砕いて、へりくだって従います」
という心を持つことです。なのに、私たちは

救いを誤解し「イエス様を信じれば救われる」と、罪人が救われることを当たり前のように考え「全能主

から特別に目をかけて頂いたのだから、堂々と天に行ける
」と思うのは、救いというものの大切な一面を

誤解しているのです。即ち、私たちの救いの目的は、人が罪深い者であることを悟らされ
悔いし砕か

れた心を会得して(自分のものとすること)、その(わきま)えの中で全能主の身側(みそば)(ちか)くで

交わりを
させて頂くこと
です。全能主も、そういう者に対しては安心して自分を表すことができ

ます。また、そういう
心を持った者に対しては、構える必要もなくなります。全能主は、そういう

交わりの相手を集め、そこに
幕屋を張って共に住まわれるのです。
このことが実現した時には、私たちと

全能主は遠い関係ではありません。むしろ、ものすごく近い関係の子とされるのです。こんな交わりを

させて頂けることが、救いの目的で
あったのです。これは本当に凄いことであり、嬉しいことです。

ですから、私たちは全能主への献心の
証として、獣の前で証しし、死に至るまで忠実を表すのです。

(結)私たちは、その目的を持って創られ、選ばれたのですから、全能主に対して尊敬する心を

持って、
従って行きましょう。そして、「死に至るまで忠実であれ」という本物の信仰の生き方を、

小羊を信じる
証しとして獣に表して行くのです。どうか、「私たちの命、またイエス様の救いは、

私たち自身のためではなく、全能主のためであること」
をもう一度覚え、「全能主に対して尊敬と

へりくだりの心を持って、最後の時まで従い通して行こう」
ではありませんか。


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