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2023年3月12日

全能主の国と全能主の義を
第一に追い求めていく、信仰の一本道

第Ⅱコリントへの手紙 13:5~7


(起) 第Ⅱコリント13章5節から、「あなた方は、果たして、本当に主を信じる心があるのか

どうか
自分自身を反省し、吟味しなさい。それとも、イエス・キリストがあなた方の内におられる

ことを、悟らないの
ですか」という御言葉を通して、「まず、第一に全能主の国と全能主の義を追い求めて

行く、信仰の一本道」を
スタートさせることについて、学んで行きたいと思います。

(承)さて、私たちの教会では、「全能主の国と全能主の義を、まず、第一に追い求めて行く、信仰の

一本道」を
私たちの信仰のあり方として、これまで学んできました。それは、信じた者の生き方が

この世の常識やこの
世の価値観に捕らわれることなく、「聖書は信仰と生活の規範」ですので、信仰と

生活の一本道を貫くこと
です
ですから、聖書に基づく、地上の生き方を一言で表現するならば

「あなたの道をヤハウェに委ねよ。主に
信頼せよ。主が成し遂げて下さる。(詩編37:5)」という

一文に尽きます。しかしながら、このことを長い間語って
来たにも関わらず、牧師の心と皆さんの心が

なかなか一致してきませんでした。それは一体何故なのかを
考えていたところ、第Ⅱコリント13章

5節に導かれました。そこには、「あなた方は、果たして、本当に主を信じる
心があるのかどうか、

自分自身を反省し、吟味しなさい」
とありました。これは、「皆さんが自分は本当に主を信じている

者なのかどうか」を考える必要があると言うことです。
一般的にクリスチャンが、自分の信仰を

振り返ると、「信じることに確信が持てず、不安に襲われ、信じていないような気持ちになる」

という、不信仰が心を支配している場合があります。なぜなら、頭の中では「主を信じる信仰が

ある」と思っているのですが、実際の生活では「全てのことを全能主に信頼し、信じる一本道」で

生きていないからです。即ち、「イエス・キリストが私たちの内におられる」という実感が一人

一人の内にないのです。その原因は、キリストにあるのでしょうか、
それとも、私たちの信じる姿勢に

あるのでしょうか?答えは、私たちの内にあります。キリストを日々実感できないのは、キリストが目に

見えない方であり、使徒時代のように、信仰が奇跡を通して目に見えて表されていないからです。

です
から、キリストが自分の内で生きていることを実感できない中で、信じ続けることに確かな

確信が持てず、信頼
していくことに躊躇(ためら)いが生じ、未信者時代と同じように、自分の判断に

頼って、目に見えるこの世の手段に
手っ取り早く頼る方法に流れて行くからです。これでは、信じた

者としての信仰の歩みは始まりません。


(転)では、「イエス・キリストがあなた方の内におられる」という実感はどうすれば、持てるの

でしょうか。一般的なクリスチャンは、「自分の信じる心が強くされたら、はっきり『信じる』と

言えるようになる」と、自分の信仰が
強くされたらという受け身信仰に頼ろうとしています。

しかし、それは間違っています。「自分が強い信仰を
持てるようにされたなら」というものでは

なく、「まず、私たちの信じる心が先にあって、初めて内住のキリストを
実感できる」のです。

なぜなら、主を信じた者は、アオリストの救いを頂いているのですから、自分の現在の
信仰の状態に

根拠を置くのではなく、どこまでも救いを与えて下さったキリストの死に根拠を置くべきだからです


ということは、罪人の自分の状態を見るのではなく、救われた事実に目を留めるのです。即ち、「自分は

罪人で
自分には力がないので、全能主に信頼して行く道しかない。故に、信じる一本道で行き

ます」という信仰に
立つのです。「自分は、何が何でも全能主に信頼していく」と決めた時、不思

議に心は定まるのです。一端
定めると、自分を裏切りたくないので、逃げ出しません。昔、個人

伝道をしていた時に、「この福音を信じられ
ない理由がありますか?」と尋ねると、その人は「ありま

せん」と答えました。そこで、「それでは信じますか?」と
聞くと、その人は「信じます」と素直に

答えたのです。とても単純ですが、その時に「信じます」と言った心には、何も余分な考えが入って

いません。ただ、話を聞いて、信じられない理由もなく、否定する理由もないので、「信じる」と

言えたのでしょう
それは本人の真心からの返答であり、そこには本人のはっきりとした意思が

あり
ます。私たちの信仰はそこから始まるのです。そして、信じたクリスチャンに対しては、次の質問が

投げかけられ
ます。「あなたは、『まず第一に、全能主の国と全能主の義とを追い求め続けなさい。

そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられます』という御言葉を信じますか?」
という

質問です。私たちの命は、偶然に
存在した命ではありませんし、自分で造った命でもありません。また、

親が自分の思い通りに造ったのでもなく
自然が造ったのでもありません。「それなら、全能主が私たち

の命を創って下さったのだ」と判断できませんか
もし、全能主が私たちの命を創って下さったお方で

あれば、私たちの必要に関して、何でもおできになる
筈です。私たちは、「この話を信じられない

理由がありますか?
」と問われたら、「ありません」と素直に答えるで
しょう。「それでは信じますか?

と問われたら、「信じます」と答えるのではないでしょうか。「信じます」といい
得た人は、それが

自分自身の心の本心になります。いくら魔物の(あなど)りの声が聞こえても、「私はイエス様を信じた

のだから、イエス様に従って行きます」と言えるのです。また、不安に感じたり、自信を持てない

ような
ことが起こって来たとしても、「信じる道しか私にはありません」と、はっきり言い得るで

しょう。それは、自分で「信じる」と口にして、そのように定めたからです。ならば、自分が

「信じる」と言ったことが通用するかどうか、
御言葉を試して下さい。「要するに、御言葉を

信じて、その通りに行動をとり、聖書に書いてあることが通用
するかどうかを試す」ということです。

それは、ジョージ・ミュラーさんのように、信じた者としての当事者となって
、御言葉の通りすること

です。これを味わっていくなら、信じる一本道を通すことになるでしょう。

(結)ですから今、本当に主を信じる心が「あるのか、どうか」を吟味すべきです。私たちは「信じ

ますか?」と
聞かれた時、「信じます」と答えました。その時、イエス様が自分自身の内におられる

ことを知ったでしょう。
それは、私たちの内にアオリストの救いが与えられたからです。ですから、

その時点で自分が罪人である事を感じていたとしても、救いを感謝したはずです。それなら、現在の

自分が主の御心に適っていないように思え
ても、アオリストの救いがあるのですから、救われているの

です。ということは、「私たちの信じる心が先にあって
信じると表明したならば、全能主は「それで

よし」と言って下さり、現在の状態がどうであるかは、問われないの
です。また、過去に犯した罪に

ついても、これから犯す罪についても、救いはアオリストの故に、保証されて
いるのです。私たちは、

アオリストの救いを信じると決めたのですから「たとえ、そうでなくとも」(ダニエル3:
18)と、

どこまでも信頼し、全能主の国と全能主の義を、とことん追い求めて行く、信仰の一本道をスタート

させ
ようではありませんか。


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