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2023年1月22日
『
信じた者として、尚更本気で信じる歩みと、
「あるか、ないかの」からし種の信仰
』
ルカの福音書 17:11~19
(起)
ルカ17章11~19節にある、10人のライ病人が癒された記事から、恐れや不安を持って
信じることは、信じたことにはならないこと、そして、
からし種の信仰があれば
、「桑の木に向かって、
根こそぎ海に植われ」と言えば、
「その言葉の通りになる」
ことを学んで行きたいと思います。
(承)さて、イエス様がある村に入られると、十人のライ病人が会いに来て、遠くから声を張り上げて、
「私たちを憐れんで下さい」と叫びました。すると、イエス様は彼らをご覧になって、「祭司たちの
所に行って、自分たちの
身体
(
からだ
)
を示して見せなさい」と言われました。彼らが言われた通り祭司たちの
所へ向かうと、その途中でライ病人たちは癒されたのです。そこで、癒された十人の内の一人は、
大声で全能主を誉め称えながら帰ってきて、イエス様の足下にひれ伏して、感謝したのです。しかし、
あとの九人は戻って来ませんでした。
彼らは、ただ癒されたというだけで終わってしまい、イエス様を
信じて願ったはずの信仰の喜びを表さなかったのです。
それは、どういうことでしょうか。
今回の癒し
の場合は、その場でライ病が癒された訳ではなく、まだライ病が癒されていない状態で、「祭司の所に
見せに行きなさい」と言われて、祭司の所に行かなければなりませんでした
。ですから、九人の者は、
「もし癒されなかったらどうしよう」というような不安と恐れを抱きながら、祭司のところに向かった
のです。
このような恐れと不安を持った瞬間に、信じる心はなくなります。
不安や恐れや疑いという
のは、不信仰の表れだからです。
ですから、彼らはたとえ癒されても、自分自身の不純な心は自分が
一番よく知っていますから、純粋にイエス様を喜んで、ひれ伏して感謝をささげるということができ
なかったのです。ただ、癒されたということを自分の内で喜んで、イエス様には表そうとはしなかっ
たのです。しかし、
十人の内の一人は、大声で全能主を誉め称えながら喜んで帰って来て、イエス様の
元にひれ伏して感謝しました。それは、「イエス様の言葉に対する信頼と、イエス様ならおできになる」
という、信じる心を持っていたからです。
そして、その信じた心が、イエス様と結び付いたのです。
だから、信仰とは、当然のように信じることから始まります。逆に、心の中に不安や恐れや疑いを
併せ持っていたなら、それは信仰ではありません。
(転)では、私たちの信仰はどうでしょう。私たちがイエス様を信じた始めの時、「イエス様の救いは、
もしかしたら詐欺かもしれない」と疑って信じたのでしょうか。そうではないはずです。 「イエス様を
信じれば救われる」と思って信じたはずです。その時、半信半疑で信じたのでしょうか?いいえ、
「イエス様は救い主であり、イエス様を信じれば救われる」と信じて、信じた筈です。即ち、「聖書は
正しいと信じ、聖書の中に出てくるイエス様と、父である全能主は正しい」ということを無条件で
信じたのではないでしょうか。
即ち、聖書の話は正しいという前提で信じたはずなのに、今更、疑い
の心を持つのは、信じた者がすることではありません。
自分は弱い人間ですと言って、不安と恐れを
持つのは、その人の勝手でしょう。しかし、
クリスチャンとなった者が、あえて恐れと不安を持って
不信仰になっていい訳がありません。
私たちは、弱い人間だからこそ、イエス様の救いが必要でした。
そして、イエス様は正しいということを認めて信じたのならば、尚更、その正しいお方にどこまでも心
を寄せて、頼って行くべきでしょう。
そして、弱い罪人だからこそ、イエス様にすべて委ねて行くの
です。私たちは、聖書は正しいという前提で信じたのですから、
信じることは当たり前です。
また、
イエス様に頼り、全能主に頼るのは当たり前です。
その特権を頂いたのがクリスチャンなのですから、
からし種の信仰とは、「あるか、ないか」の信仰なのです。
信仰がないのに、立派な反省ばかりして、
立派な決意表明しても意味がありません。
即ち、「これからは一生懸命やらせて頂きます」というような立派な決意表明などは、もう必要ない
のです。
そのように言う人は、結局は自分に頼って決意表明しているのであって、全能主を頼ってい
ないのです。すなわち、その人は、自分を信じても、主を信じる信仰がないのです。
信仰があれば、
主が言われた通りするだけです。「イエス様は正しい、聖書は正しい、全能主は正しい」と信じ、
「主に委ね、主に信頼し、主が成し遂げて下さる」という、信じた者の生き方を、はったりを効かせ
てでも、信じ通して行けばいいのです。信仰とはそういうものです。
(結) こういうわけですから、クリスチャンにとって、聖書をそのまま信じることは当たり前、
イエス様に頼っていくのは当たり前、全能主が成し遂げて下さると信じるのは当たり前なのです。
ですから、自分は弱いからといって、信仰も弱くなってしまうという考えは間違っています。
自信を失うと、信仰も同時に失うなんて、そんな馬鹿げた話はありません。
私たちは、確かに弱い者
ですが、
だからこそ、本当に信頼できるお方に心を寄せて行くのです。全能主はどこまでも正しいの
ですから、それを信じ続けて行けば良いのです。そこに全部懸けて行くのが、信じた者の生き方
です。即ち、自分自身が信じた道をどこまでも追求して行くことです。
その中で、全能主がどの
ように助けて下さるのか、私たちには分かりませんが、それでも、私たちの頭に浮かばないような
ことをなさるのが全能主です。また、目に見えないものを信じるのが信仰です。どうか、恐れを
持つのではなく、不安を抱くのでもなく、本気で信じ、
「ある」という、からし種の信仰を持てば、
「桑の木に向かって、根こそぎ海に植われ」と言えば、
「その言葉の通りになる」
という、今まで
見たことのない全能主の奇跡を味わって行こうではありませんか
。
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