2023年1月29日
『前のものに向かって懸命に努力していく』
ルカの福音書18:9~17
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(起) ルカ18章9~14節の「パリサイ人と取税人の祈り」と、18章17節の「幼子のように
全能主の御国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできません」という御言葉から、
幼子のようにイエス様を単純に受け入れ、そして「聖書は正しい、イエス様は正しい、全能主は
正しい」と、単純に信じ、「前のものに向かって懸命に努力していくこと」を学んで行きたいと思い
ます。
(承)さて、ルカ18章9~14節を見ますと、パリサイ人と取税人の祈りの譬えが出てきます。
ここを読んで分かることは、この二人の内、「全能主に義とされたのは、取税人の方である」ということ
です。私たちには、この取税人のように、人には言えないような、隠し持っている醜い罪がたくさん
あります。ですから、正直なところ、全能主の前に立つと、目を天に上げることもできず、胸を打ち
叩きながら「全能主様、罪人の私を憐れんで下さい」と言うしかない者です。それは、罪人である
自分に完璧に打ち拉がれて敗北しているからです。実に情けない姿です。ところが、全能主は
「そんな者はもうダメだ。わたしはお前を信用しない」と言われるのではなく、むしろ、その砕かれた
心を受け止めて下さり、本当に砕かれた心を持ったなら、「そこから始めよ」と言って下さいます。即ち、
「お前はわたしを信じ続けて行っていい」と言って下さっているのです。このような救いは、世の中
にはありません。これこそ、私たちにとって本物の救いです。
(転)しかしながら、私たちは、過去の汚点を悪魔から訴え掛けられると、過去の自分の恥が思い出され、
気が暗くなって、やる気が失せ、前に進めなくなってしまいます。なぜなら、私たちは過去の過ちを忘れ
去ることはできないからです。そして、いつも甦ってくる罪に打ち拉がれて、その心の汚点を知って
いる悪魔に脅かされ、自分の弱い部分に対して勝利できない日々を思い知らされて行くのです。
しかし、そんなどうにもならない私たちの罪に対して、聖書は「後ろのものを忘れ、前のものに
向かって懸命に努力し、・・・ひたすら目標を目指して走っていくのです」(ピリピ3:13~14)と
あり、この御言葉によって励まされるのです。それは、「後ろのものを忘れなさい」と言ってもらえる
からです。何故かと申しますと、イエス様が、アオリストの救いによって私たちを贖って下さった
からです。即ち、「現在の状況如何に関わらず、私たちの罪の贖いは既に成し遂げられており、
私たちは御国に入る特権を頂いている」からです。ですから、私たちの罪は決して消えませんが、
イエス様のアオリストの贖いを受けた者として、「前のものに向かって懸命に努力して行けばいい」という
ことなのです。ということは、「今」が大切です。即ち、アオリストの救いを頂いている者として、
「今」現在、イエス様に信頼して、とことん信仰によって努力していけばいいのです。ところが、
ここのところを私たちはいつも間違えます。魔物の囁きによって「自分の恥を忘れることは卑怯
じゃないか?自分の罪の棚上げじゃないか?」と怯やかされ、聖書の励ましを取るに足らないもの
にしてしまうのです。確かに、現実にダメな自分を抱えていますから、魔物の声を全面否定は出来ま
せん。また、棚上げにもできません。しかし、聖書は正しいのですから、100%信じて、心を替えて
行っていいのです。それを、「本当にいいの?」と思い続けていけば、それこそ、聖書を否定するこ
とになり、信じようとしない不信仰に陥ることになります。ルカ18:17を見ますと、「幼子の
ように全能主の御国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできません」とあります。
「幼子のように受け入れる」とは、「単純に信じて受け入れる」ということです。幼子は頭で考えず、
理屈なしに信じます。ところが、大人になると単純ではなくなり、「自分は醜い人間で、なお罪を
犯すから、こんな者が御国に入れられるのだろうか」とゴチャゴチャ疑って、頭でいろいろ考えます。
そして、「幼子のように御国を受け入れる」ということができなくなってしまうのです。すると、
その時点で、全能主が聖書を通して語って下さっている言葉から離れてしまいますから、私たちの心
に平安がなくなり、「救われた者として、御国に行ける」という確信を失うのです。即ち、信じる心が
なくなると、全てを失う事になると言うことです。だから、私たちはもう頭で考えるのは止めましょう。
聖書には、「後ろのものを忘れ、前のものに向かって懸命に努力し、ひたすら目標を目指していい」と
書いてあるのですから、その全能主の言葉を単純に信じて、あえて信仰に立ち、信じて前向きに努力
して行くのです。そして、キリストのアオリストの贖いがあるのですから、おどおどしない信仰に
立つべきです。
(結)私たちにとって、今犯した罪は、1秒後にはもう「後ろのもの」です。何回も同じ失敗をして
しまったとしても、「一日に七度罪を犯しても、悔い改めるなら赦しなさい」と、全能主は言われの
ですから、私たちに必要なものは、取税人のように遜ることです。私たちには、あの取税人のように
「自分の中には義となるものはありません。憐れんで下さい」という遜りの気持ちを、日々持って
行くべきです。その気持ちがあれば、全能主はいつも「そこから始めよ」と言って下さいます。
これが救いの本質です。ですから、たとえ私たちを訴える魔物がいようが、信じて行けばいいのです。
悪魔は夢の中でさえも、私たちの過去の罪を思い出させて、私たちを引きずり落とそうとします。
でも、聖書には、「後ろのものを忘れ、前のものに向かっていい」と書いてあります。その聖書の
言葉は正しいのです。どうか、御言葉を幼子のように単純に受け入れ、「聖書は正しい、イエス様は
正しい、全能主は正しい」と、どこまでも信じ続けて、全能主が全てを為し遂げて下さると強い心で
信じて、前のものに向かって懸命に努力して行こうではありませんか。
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