2023年1月15日
『全能主を信頼し、信仰を追求し、信仰の炎を燃やす』
ルカの福音書 12:49~53
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(起) ルカ12章49節「わたしは、火を地上に投げ込むために来たのです。」と言われたイエス
様の言葉から、その火を燃やし続けて行くためには、「どこまでも全能主に心を向けて信仰を追求して
行くこと」であることを学んで行きたいと思います。
(承) さて、最初の人間アダムとエバは、悪魔に騙され、全能主が「食べてはいけない」と言われた
木の実を食べて、全能主から離れ、「自分の考えで自分の思うように生きる道」を歩み出しました。
そして、彼らの子孫である全人類は、今も尚、その生き方を続けているのです。しかし、どこまで
いっても人間は被造物であり、何でもできるわけではありません。ですから、「いくら努力しても、
どうにもならない」という壁にぶち当たります。悪魔は、どうにもならない道に誘い込んで、人間を
騙し、好きなようにやらせておいて、最後には「自分で始末するが良い」と言って放り出すのです。
そして、人間の無力さ、限界を見せつけて、落胆させ、やる気を失わせ、生きる場所を失わせるの
です。この悪魔の罠に填まって苦しんでいる人が、世界中にどれだけいることでしょうか。そして、
私たちも未信者時代には、その内の一人として苦しんでいました。
(転) ところが、私たちは全能主というお方を知り、信じました。そして、信じた後には、「このお方に
頼って生きる」という救いを頂きました。それがクリスチャンの最高の特権です。先程も申し上げた
ように、人間は自分の能力に頼ってやろうとしても、そこには必ず限界があります。それを自分の力に
頼って、何とか乗り越えて行こうとしても、失望落胆するのです。しかし、私たちには「何でもできる
全能主」がおられます。ですから、その方に頼って生きて行くなら、全能主が成し遂げて下さる道が
あるのです。そうであるならば、私たちはそのお方に全幅の信頼を寄せ、お委ねして行けば間違いは
ありません。ですから、クリスチャンは、そのお方に大胆に頼って行くのです。すると、私たちは少し
ずつ自分の限界から離れて、ダメだと思っていた世界も、「やればできる。全能主が道を開いて下さる」
ということを知ることができます。すなわち、全能主に頼る者たちには、限界はありません。この
醍醐味を味わわさせて頂く秘訣は、私たちの信仰です。もし、私たちが全能主に委ねて、大胆に
信頼し、全能主に全面的に頼っていくならば、「山が動く」と言われています。なぜなら、その人は、
たとえ生まれながらに罪人であったとしても、イエス様のおかげで、この新しい生き方が出来るように
されたからです。それは、私たちの罪をイエス様が全部贖って下さり、信じる者には、全能主の子と
して下さる立場を下さったからです。そこには、アオリストの救いがあります。ですから、私たちの
現在の肉の状態がどうであろうが、関係ありません。はっきり言って、この世のことに失敗したから
とか、過ちを犯してしまったとか言っても、そんなことはどうでもいいのです。心が全能主の方に
向いているなら、姦淫の現場で捕らえられた、マグダラのマリヤのように、イエス様にとことん従って
行く事が出来るのです。すなわち、「自分はあれも出来ない。これも出来ない。だから、自分はダメだ」
と、卑下して落胆する必要はないのです。むしろ、現在の状況の如何にかかわらず、私たちはイエス
様の救いを頂いているのですから、ダメな自分に目を向けて、「お前はダメだ」という悪魔の言葉に
翻弄される必要はもうありません。また、この世のことで劣等感を感じたり、ダメだと思う
ことが実際にあったとしても、私たちには全能主がおられるのですから、どこまでも全能主に心を
向けて行けばいいのです。全能主を知った者は、悪魔の声を心の中に入れる必要はないのです。その
悪魔の声は、ただ暗闇に誘い込むだけです。ですから、その時は、あえて全能主を見上げるのです。
だから、悪魔の声が聞こえたら、その瞬間にシャットアウトして無視して下さい。そして、イエス様の
アオリストの救いを思い出して下さい。すると、心は、全能主の方に向けることができます。この心の
作業は、救いを頂いた者として自分がして行くことです。決して他人にやってもらうことではありま
せん。救いは恵みです。しかし、信じて行く作業は、その人の信仰の追求作業です。「信じることが
出来ないから恵みで助けて」と言うのは、大間違いです。それは、甘ったれた、信仰のない自分の
逃げ口上です。信じた人は、自分で自分の信仰を働かせるのです。それをやらない人は、信じたこと
になりません。クリスチャンの歩みは、信じてやって行く、その信仰の追求心に掛かっています。
(結) ですから、どうか信仰の火を燃やして下さい。12章49節を見ますと、イエス様は「その
火が燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」と、言われました。ここでイエス様が
言われた「火」とは、信仰の火のことです。「もうダメだ」と、うなだれて、自分で壁を作って
しまうのは、信仰を捨てることです。その「ダメだ信仰」の壁を作った瞬間に、全能主を見なく
なります。それが私たちの罪です。信仰に依らないことは罪だからです(ロマ14:23)。
ですから、信仰の火を燃やすということは、どこまでも全能主に心を向け、その生き方を追求して
行くことです。そうすれば、必ず道は開かれて行きます。どうか、私たちの信じる信仰を燃やして
行きましょう。信仰を燃やしていく人は、自分の肉的な考えから、全能主を信頼する考えに入れ
替え、どこまでも全能主に心を向けて行く生き方を追求して行きます。どうか、私たちも勇気を
持って「信じた者であるなら、どこまでも全能主に心を向けて行く信じ方」に変えて行きましょう。
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