2023年1月8日
『心の転換を図るバプテスマ』
ルカの福音書 7:1~10、30
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(起) ルカ7章1~10節と7章30節の御言葉から「考えを入れ替え、心の転換を図るバプテ
スマの中に入って、主に委ね、主に信頼し、主が成し遂げて下さる」という信仰で、歩み出すことを
学びたいと思います。
(承)さて、ある百人隊長のしもべが病気になって死にかけていた時、イエス様の噂を聞いた百人
隊長が人を遣わし「自分のしもべを助けて下さい」と、お願いしました。そこで、イエス様が来て
下さることになったのですが、百人隊長は、また人を遣わして「主よ、どうかご足労下さいません
ように。私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。・・・ただお言葉を頂かせ
て下さい。そうすれば、私のしもべは必ず癒されます」と言ったのです。一般的に、「お言葉だけを
頂かせて下さい」と言って、癒しを願うような求め方は致しません。なぜなら、この世の常識は、
行動なしに口だけでは、結果は出ないからです。ところが、イエス様の本来の癒しは、具体的な医療に
よる癒しではなく、ただ言葉で宣言するだけのものでした。なぜなら、イエス様はロゴス(ことば)
というお方であり、言葉の宣言だけで、この世界をお創りになった方だからです。しかし、だからと
いって、離れた場所で癒しを宣言して頂けば病気が治ると信じることは、なかなか難しいものです。
何故なら、私たち人間は、目に見える具体的なしるしを見なければ、「主が成し遂げて下さる」
という期待感を持つことができないからです。現実的に、今私たちが生きているこの社会では、「ただ
お言葉を頂かせて下さい」そうすれば、「何でもその通りになります」というような奇跡を、目で見て
来ていません。ところが、この百人隊長は、本気で「ただお言葉を頂かせて下さい」と言い切ったの
です。それは、「イエス様が事を成して下さると信じ、主に委ね、主にお任せする心を持っていた」
からです。その信じる心をイエス様は喜ばれ、「これ程の信じて仰ぐ心を持った人を、イスラエルの
中でも見たことがない」と言われて、百人隊長のしもべを、言葉だけで癒されました。
(転)では、私たちもこの百人隊長のような信仰の心を持つには、どうしたら良いのでしょうか。
それは、「地上の感覚、地上の常識が全てだ」という考え方の転換を図って、「天のことはもちろん
のこと、地上のことも全部全能主にお委ねする」という心の転換をすることです。人間はどうしても、
自分の感情を第一にする考え方に立っています。そして、「この地上で認めてもらいたい。受け入れて
もらいたい」という強い願望が潜在意識の中にあります。それは、この世の価値観に迎合して
いるところに問題があります。私たちは、その考え方をガラッと変えなければなりません。私たちは、
人間的な価値観で生きているのではなく、全能主の価値観の中で生きています。ですから、どこまでも
全能主が第一という考え方に徹して行くべきです。この意識をもっているなら、私たちは全能主の
お言葉一つで、全ての事が成ると信じることが出来ます。逆に、全ての事を自分の思い通りにしようと
考える人は、全能主が成し遂げて下さるとは信じようとはしません。しかし、「どこまでも、全能主の
お考えが第一なのですから、私たちは全てのことを全能主に委ね、全能主にお任せすべきです。」
その中で、全能主の御心が何であるかを知り、どんなことでも一生懸命やらせて頂くのです。もし、
途中で命を失うような状況になった場合、「私にはまだやるべき仕事があるので、全能主は生かして
下さるはずだ」と、勝手に思い込んではいけません。たとえ命を失っても、全能主がそれを御心として
おられたなら、それでいいのです。大事なことは、「全てを主に委ね、主に信頼し、主が成し遂げて
下さる」という考え方に、心の転換を図ることです。そして、どこまでも全能主を第一にして行く心を
持って行くのです。その心さえ持っていれば、全能主はそれで満足されるのです。地上で一角の
人間になり、地位を得て有名になったとしても、それで全能主が喜んで下さると思ったら、大間違い
です。そんなものを持って天に行くことはできません。また、地上で全能主のために一生懸命働いた
ことを御土産にして、天に迎えられるとも考えてはいけません。全能主に対して、自分の
働きを自分の誇りにしてはいけないのです。「何かを成し遂げた」としたら、それは「全能主が成し
遂げて下さった」ことですから、私たちは自分を誇ることはできません。むしろ、全能主としては、
誰よりも、自分は罪人だということを自覚して、遜って来る者を信頼されるのです。ですから、
この地上的な考えから、心の転換を図っていくべきです。私たちは全能主の前に立派な決意表明を
すれば、受け入れてもらえると考えるのは、大間違いです。全能主はそんなものは全く信用されま
せん。私たちは罪人ですから、立派な決意表明を口にしても、その通りできません。その証拠に、
「これまでどれだけ立派な決意表明をして、何も為し得なかったことか」それが、私たちの現実です。
ならば、もう見栄を張って、粋がって、自分を良く見せようとして、全能主に近づくのではありま
せん。私たちは、「砕かれた悔いし心でいい」と言われているのですから、その考え方に心の転換を
図るのです。そして、最後の最後まで、主に信頼し続けて行くのです。
(結)こういうわけで、私たちにとって大切なことは、全能主に対する信頼を第一にして行くことです。
即ち、どこまでも、信仰が優先です。「しるしを見なければ信じない」という傲慢な考えは捨てて下さい。
それは、ただの御利益信仰です。全能主は私たちのしもべではありません。しるしは、どこまで
いっても全能主の主権の中で成されて行くものです。ですから、全能主の主権を信じていない者には、
全能主の全能の力は現わされません。どうか、これまでの「自分の考えに立つ考え方をガラっと入れ替え、
全能主の考えに立つ、心の転換を図るバプテスマ」の中に入って下さい。そして、これからは、「主に
委ね、主に信頼し、主が成し遂げて下さる」という信仰によって、「信じる者に働く全能主の力が如何に
偉大なものであるか」を、味わい知る者とされて行きましょう。
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