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2020年 NO.732


『百人隊長の信仰の心とは?』


 カペナウムの百人隊長は、ローマ兵の異邦人でしたが、ルカの福音書7章を見ると、

彼はユダヤ人を愛し、ユダヤ人のために会堂を建てた人で、おそらくユダヤ教に改心した

人のように思われます。このユダヤ教は、律法主義で、自分を義とし、イエス様を受け

入れていませんでした。なぜなら、ユダヤ人の多くは、「罪人を招いて悔い改めさせるた

めに来られた」イエス様のメッセージを受け入れず、「悔い改めて、福音を信ぜよ」という

メッセージを無視していたからです。しかし、そんな中で百人隊長は、イエス様の前

(へりくだ)りの心を表し、1)「自分にはユダヤ人のメシアを私の屋根の下にお入れする

資格もなく、お迎えに上がる資格さえ無いと思っております」と言ったのです。そして、

2)「只お言葉を頂かせて下さい。」そうすれば、(3)「私のしもべは必ず癒やされ

ます」という心を表したのです。この姿勢にイエス様は驚かれ、「イスラエルの中でも、

これ程の信じ仰ぐ心を持った人を見たことがない」と言われました。いったい百人隊長の

どこにイエス様は驚かれたのでしょうか。

 まず第一に、彼は(1)「家に入れる資格がない」と本気で遜りの心をイエス様に表わ

したということです。いくら、しもべの癒やしのために(へりくだ)ってお願いしたとしても、

家にも入れず、迎えにも行かないとすれば、願い事を叶えて(もら)うどころか、「失礼な

男だ」とかえって怒りを買ってしまうのではないでしょうか? しかし、彼は、「そのよう

な資格は自分にはありません」と言ったのです。私たちは、イエス様が贖いをして下さっ

たから、救って頂くのは当然のように感じていないでしょうか? 私たちは罪を犯して

来た者なのに、「絶対主に向かって救って下さい」と、言う資格があるでしょうか?

いいえ、罪人が「救って下さい」という資格はありません。しかし、「資格がありませ

ん」と、はっきり言えた百人隊長は、絶対主の側から見ると「罪人が本当の罪人の心に

立っていた、(へりくだ)りの心の言葉だ」
と見られたのです。
 
 また、(2)「お言葉だけ頂かせて下さい」とは、普通なら言えない言葉です。何故な

ら、口だけでは現実味がありませんから、私たちは目で見える実感がないと信じれませ

ん。しかも初対面なのに「言葉だけでいい」とは言えないものです。しかし、彼は「お言葉

だけください」
といって、「言葉だけで信じれる信仰があった」というのは本物の信頼

です。

 最後に、(3)「しもべは必ず癒やされます」と言い切りました。聖書には、ベテスダ

の池での癒やしが出て来ます。そこには大勢の病人がいたはずですが、癒やされたのは

一人しかいませんでした。また、死んだヤイロの娘が生き返りました。しかし、死んだ

全ての者が生き返った訳ではありません。何故でしょうか? それは、「主よ、主よ」と

言う者が、皆天の御国に入るのではないからです。盲人には、「あなたの信じる通りに

なれ」と言われています。信じる信仰とは、「絶対主を信じるのは当然だ」という信仰

です。このように、三つの信仰の要点が百人隊長の中にはあったのです。その信仰には、

初めから無条件で信じる心、すなわち「見ずして信じる者は幸いだ」という心があったの

です。
これは、どういう信仰でしょうか?それは、「絶対主を信じるのは当然だ」という

所から出てくる心です。これは、私たちの信仰と同じです。これでいいのです。聖書は

正しい。絶対主は正しい。イエス様は正しい。この信仰の確信なしで、信仰と言えるで

しょうか?私たちも、信じるのは当然だという確信の中で、これからの集大成の証を大胆

に立てて行きましょう。


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