(罪の責任を認める)
クリスチャンは、イエス様の贖いによって、自分の罪の責任を認める事の出来る者となり
ました。しかし、認めることと、責任を取ることとは別です。その例が、山頂の垂訓を読んで
いくと良く分かります。なぜなら、イエス様の垂訓では、人の罪深さはよく分かりますが、
その通りに責任を取ることの難しさをつくづく感じるからです。それは、あまりにも道徳水準
が高く、妄想も裁きの対象とされ、「右の目、右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨て
なさい」とあります。今まで、情欲の対象として女を見て、その目を切り捨てたという話を
聞いたことがありません。又、右の手が悪さをするから、その手を切り捨てたという話も
聞いたことがありません。人間は本来罪人ですから、当然数々の罪を犯します。しかし、
その罪の責任を取るのは実に難しいことです。
しかも、人が心の中の罪を認めたら盲目にされるというのでは、あまりにも酷で、
この聖書の言葉通りにはできません。たとえクリスチャンであっても、やはり御言葉は
読むには読みますが、スルーするだけです。それは、自分の目をえぐりだすことなど
出来ないからです。これは、信者も未信者も同じです。ということは、「誰一人、罪の
責任を取ることの出来るものは一人もいない」ということを暴露していることです。
しかし、使徒行伝を見るとき、語られた垂訓の真意が記されています。使徒行伝13章
39節では、「モーセの律法では義とされることの出来なかった全ての事について、
信じる者は誰でも、このイエスによって義とされるのです」と。人間は、元々モーセの
律法は守り切れない者でした。それなのに、「あなた方の義が律法学者やパリサイ人の
義に優っていなければ、あなた方は決して天の御国に入ることは出来ない」(マタイ5:
20)と言われたら、御国に行ける者は、一人もいません。モーセの律法以上に厳しい、
高い基準の律法を求められても出来るわけがないのです。だから、「罪人の人間は皆、
魔物を抱えているので、イエス様の戒めを守ることは完全にお手上げだった」という
ことです。
そこで主は、全面的に堕落した人間を救い上げるために、主御自身が命を懸けて
身代わりとなって、人間の罪の贖いをして下さいました。ですから、その身代わりを
信じる人々には、「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法を終わら
せられたのです。」(ロマ10:4)とあります。だから、今は、律法による責めは
負わされていません。しかし、以前は罪の責任を認めたら大変なことになりました。
だが、今は、もう罪の責任を認めて、その責任を取るべきです。何故なら、今は「罪の
責任を認めても、目をえぐり出せ」とは言われないからです。それは、罪を告白した
なら、絶対主は「それらの罪を赦し、一つ一つの罪から清めて下さいます」(第Tヨハネ
1:9)と言われているからです。ということは、今は、全面的に自分の罪は認めて告白
することは、最低限していくことです。だから、私たちは、自分の罪に対して正直に
なり、隠していく必要はないのです。少なくとも、この地上にいる間は、「罪赦された
罪人」ですから罪を犯さなくなることはありません。だから、せめて自分の罪の責め位
は、弁解せずに正直に負って行くべきでしょう。これが、イエス様の垂訓の目的です。 |
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