『主が譬えで語る真意』
(絶対主の恩を100倍返し) |
主は、しばしば譬えを用いてメッセージを語られていますが、譬えで語られるのは、
霊的な奥義を知る事を許されている者と、許されていない者がいるからです。許されて
いない者とは、「見ても見ず、聞いても聞かず、又悟らない者です。」それは、「豚に真珠
を投げる」ことになるからです。彼らは語られている宝の奥義を聞くには聞くが、決して
悟らないのです。なぜなら、「その心は鈍く、耳は遠く、目は閉じて考えを入れ替え様
としない人々」だからです。こういう人々は、主のメッセージで責められると、「あえて
分からない」という心に留まり、心を閉じるのです。なぜなら、責められたくないという
傲慢が、心の隠れたところにあるからです。しかし、私たちは譬えで聞くのではなく、
いつもストレートに御言葉を聞いています。それは、「あなた方の目は見ており、耳は聞い
ているから、幸いです」(マタイ13:16)という者だからです。そこで、今回種まき
の譬えと、毒麦の譬えを通して、譬えの真意を理解して行こうと思います。それは、毒麦
の譬えも、種まきの譬えも結論は同じだからです。では、その解き明かしを見て行きま
しょう。
この解き明かしの結論は両方とも「聞く耳のある者は聞きなさい」とあるように、この
譬えは連携しています。まず、道ばたの種とは 福音を聞いても「すぐにそのメッセージ
が取り去られてしまう人々です。」岩地の種は困難と迫害が来ると根がないので、「つま
ずいてしまう人々です。」次に、茨の種は世の心遣いや、富の惑わしによって「聖書の
御言が塞がれてしまう人々です。」これらは、皆実を結ばない人々で不信仰のため
信仰を全うしない人々のことです。しかし、良い地に蒔かれた種は、或る者は30倍、
或る者は60倍、或る者は100倍にも実が結ばれて行きます。これらの種まきの譬え
は、今の時代に語られている我々への警告です。しかし、私たちは、道ばたの種とか岩地
の種とか、茨の種ではありません。私たちは良い地に蒔かれた種として何倍にも実を
結んでいく者です。ところが、毒麦の譬えを見ると、信者と言われる人々でも、実を
結ばない人々が多くいます。どういう人々かと言い ますと、実を結ぶとは、「天の父
の御心を行う実」ですから、地上の努力によって得られる実ではないのです。この世は
自分の力に頼るしか有りません。しかし、自分に幾ら律法を課しても、絶対主の御心を
行う力は人間にはありません。(例→「右の手が罪を犯したら、それを切って捨てな
さい」マタイ5:30)だから、「絶対主の御心を行う力は、罪深い肉にはありません
ので、徹底的に絶対主に頼っていくことです。」それなのに、多くのクリスチャンが、
魔物に騙されて「絶対主に頼って何が出来るのか」と思わされて、自分に頼っているの
です。自分に頼ってやれば、誇れるかも知れません。しかし、それは地上のことだけで、
罪が消え失せることはありませんので、最後は、毒麦として「御国から取り集められて
燃える火の炉に投げ込まれます。そして、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりをしたりする
のです」。(マタイ13:41〜42)。なぜなら、「絶対主に信頼することを馬鹿に
した」からです。それは自分を信じても、絶対主を信じて来なかった結果です。これが、
毒麦の譬えの解き明かしです。幾ら信じるように見せかけても、「木は実によって知れり」
とありますから、「絶対主に頼って何が出来るか」という心を持っている者は、信じる仲間
に入っていても、信じる者たちの「つまずきとなる者」です。ですから、その報いを受け
るのは当然です。毒麦は毒麦です。ですから収穫の時に(世の終わりの時)御国から取り
集められます。そして、泣いて歯ぎしりするのです。しかし、「義人たちは彼らの父の
御国で、太陽のように輝き渡ります。だから、聞く耳の或る者は聞きなさい」(マタイ
13:43)と種まきの譬えと同じ結論に至るのです。私たちは、ここまで信じて来た者
です。ならば、トコトン信じて「信じる者に働く絶対主の全能の働きが如何に偉大か」を
見せて貰いましょう。絶対主への恩を100倍返ししましょう。
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