生きた信仰とは、頭の世界の理解と罪の反省の世界ではありません。単なる頭だけの
信仰の理解と肉の反省を続けても、信仰は成長しません。それは、犬でもしますから。
信仰は、生きている者が現場で信仰の心を現して「なんぼ」の世界です。信仰はその人
の生き様であり、その人の考え方の全てです。信仰は絶対主に焦点が合わされ、本気に
なって主に仕えて行こうとする世界です。ヨハネ14章10節では、「わたしが父にお
り、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」と弟子たちを叱責され
ました。それは、弟子たちが、「わたしを信じる者は、わたしを遣わされた方を信じるの
です」(ヨハネ12:44)と、幾ら説明しても分かろうとしなかったからです。
ですから、イエス様はイライラしておられたのです。「いい加減に信じて悟りなさい」
と。主の言葉に従うためには、自分のことより「絶対主の国と絶対主の義」を中心に
考えないと、答えは出て来ません。常に心を変えて謙っていこうとする人は、現場で
信仰の心が現れます。そういう人は、主に用いられますが、現場で肉の考えに立ち、
霊的な心を固める人は、絶対主に嫌われ、信用されなくなります。だから、指摘された
現場で謙り、心を変えていくことは、主に用いられる秘訣です。多くのクリスチャンは、
はっきり自分の弱点を指摘されると、心を固めて謙らず、すねて膨れて、
不遜な顔つきになります。それは、子供のころからの習慣になっているからです。
その人は、自分の心は変わらないものと思い込んでいるので、ただ駄目だと落ち込むだけ
です。落ち込むのは、謙らない傲慢な心の表れです。もし、心を変えて謙って
いこうと思うなら、自分の心が新たな心に変わって行くのを覚える筈です。それを
現場で経験し実践しないと、いつまで経っても信仰は頭だけのものとなり、イエス様から
指摘された通り、「わたしの語った言葉そのものが、終わりの日にその人を裁くことに
なります」(ヨハネ12:48)。ですから、信仰は、現場で働く生き物ですから、現場
の心の実践が大切なのです。
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