ヨハネ福音書の6章から読み進んでいくと、何とも言えないイライラ感が湧いて来ま
す。それは、ルシファーの影響を受けた群衆の反発が伝わってくるからです。主を信じた
筈の人々が、「わたしが命のパンです」と、主が言われた言葉に対して、「これはひどい
言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」と言って、去って行きました。その
去って行った人々は、5000人の養いの中にいた人々であり、しかもイエス様を無理
矢理ユダヤ人の王にしようとした人々なのです。そんな彼らの中には、子供の頃から
イエス様を知っていた近所の人々もいたことでしょう。しかし、それであっても、主の
なされたしるし(5000人の食事)や、ヨルダン川でバプテスマのヨハネが証言して
いたことを実際に目撃した人なら、主のメシヤとしてのメッセージが心に入ってきても
おかしくありません。ところが、絶対主の御子としての証をされた時に、彼らはどこま
でも人間的な思い込みから離れず、主に逆らう者となったのです。この現実は、今日の
クリスチャンも陥ってしまう、恐ろしい魔物の心です。なぜなら、人は感情的になると、
絶対主の考えよりも、自分の考えに凝り固まるからです。ですから、クリスチャンが
主に仕えて行くための重要な点は、「どこまでも聖書は正しい、絶対主は正しい」と
言うところから離れてはいけないのです。どんなに自分に理解できないことがあっても、
人間は被造物です。その謙りは絶対に持つべきです。ですから、クリスチャンが生涯主
に仕えて行きたいと思うなら、どんな場合でも「心を開き続け、自分の反抗心を封印し
て、決して心を閉じない」ということが重要です。それは、人は皆「魔物の心を抱えた
罪人」だからです。ですから、この現実の前では、たとえ、生涯主に仕えていくと決め
ていたとしても、イザ自分の心に嫌気をさすと、人は簡単に心を閉ざし、いとも簡単に
心変わりをし、裏切ることも簡単にしてしまいます。その例は、ヨハネ福音書5章66節
に、「主を信じた多くの弟子たちが、去って行った」という事例にあります。これは、
何故でしょうか? その理由は、「誰でも、自分から出たことを語る人は、自分の栄光を
求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄光を求める者は、真実であり、その者の内に
偽りはありません。」(ヨハネ7:18)とあるように、自分の栄光を求める人は、自分の考え
に拘ります。すると、相手の側に立って聞く耳を持たなくなり、「自分から出た考え」を
引くことが出来なくなります。しかし、「自分を遣わされた方の栄光を求める人」は、自分
の考えよりも、どこまでも遣わした方の考えに立ち、 最後まで、その御方の意向に従おう
とします。それは、その方を信頼すると決め、清濁併せ呑むことも主に反抗しないと
決めた自分の献身の定めだからです。ですから、その人は反抗することも裏切ることもせ
ず、生涯仕え通すことを選んでいくのです。これは、仕えることを決めた者の重要な要素
です。しかしながら、人間には、「自我」がありますので、自分の考えを引くことは難し
いことです。それは、心の中に魔物が住んでいる現実は、命閉じる時まで続くからです。
ですから、たとえ自分が決めていても、自分の都合でいくらでも翻すことが出来てしま
います。しかも魔物は、その心変わりを後押しして来ます。ですから、クリスチャンが、
絶対主に仕えていこうと決めた純粋な心を通して行くには、「如何に心を開き続けるか」、
即ち「自分の反抗心」を封印するかで決まります。この自分の心の定めは重要です。即ち、
「自分の反抗心を封印して、自分の自我を引くと決める自主的な心の定め」がないと、
ヨハネ6章66節の「去って行った多くの弟子たち」と同じになり、ルシファーの恰好の
餌食になってしまうからです。クリスチャンが「叱られたり、性格をいじられたりして、
自分の嫌なことを言われる」と、いとも簡単に自分の心を閉じ、固まってしまいます。
これでは、絶対主の働きのために用いられることは出来ません。心を閉じる、心を固めると
いうことは、拒否することであり、それは、従うことを自分から放棄する意思表示になり
ます。この事は当たり前のようにしており、多くのクリスチャンは、この事が信仰の障害
となっていることに気づいていません。ですから、絶対主は、そんな私たちを信頼して
用いることが出来るかどうかを、私たちが心を開き続けるかどうかで判断しておられます。
信仰者は、まず心を閉じる事を放棄する訓練から始まります。なぜなら、一般的に子供の
頃から、反逆の心は当たり前になっており、自分の心を固めて無視することは普通にして
いるからです。もし、仕える道を選択するなら、「心を閉じる事を封印して、心を固める
習慣を砕いていかなければなりません。」これは、一般の社会でも同じように求められる
事です。ですから、人生は決断と定めの連続です。人間は過去に向かって生きられません。
誰もが明日に向かって生きています。ですから、後ろのものを忘れ、前のものに向かって
(ピリピ3:13)、この仕える者の重要な心得を決断していきましょう。
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