覗き見して、どこまでも様子を見ようとする人は、先々のことに不安を抱き
続けるので、いつまで経っても信じる当事者にはなれません。なぜなら、信じる当事者に
なるには、ミュラーさんのように「絶対主を信じて、絶対主に在って生きる」という
徹底した信仰によって生きる決断が必要だからです。この決断は、状況が整い決意が
固まるまで出来ないと、決め込んでいてはいけません。決断とは、状況が整ったらする
というものではなく、後先の不安から離れて、理屈で判断することです。いつも状況を
見て判断しようとする人は、理屈で解っても自分の感情が邪魔をし、感情が同意するまで
決められないのです。この感情に立ち続ける人は、感情に頼る習慣がついているので迷い
続けます。それは、自分の意志で決める決断から逃げているからです。そういう人は、
いつまで経っても迷い続けるだけで、信仰による新しい歩みを始め出すことが出来ま
せん。しかし、信仰に対して純な生き方をしようと思う人は、リスクを受け止めた上で、
感情から離れ、理屈に従って決断します。ところが、リスクを恐れて決断できない人は、
弱い自分ばかり見て、罪人である自分から逃避しているのです。それは、弱い罪人である
自分を正直に認めたくないからです。もともと罪人の人間は、皆弱さを抱え込んで
います。ですから、その弱さを乗り越えてから決断しようと思っても無理です。生まれた
ままの人間は、一生涯弱い自分の感情から抜け出せません。ところが、牧師は人一倍弱い
人間ですが、その弱い自分を土台にして感情で決断して来なかったのです。それが、中学
三年生の時の闘病の中から立ち上がった経験です。そこが、皆さんと違うところです。
この感情を乗り越えて決断する心は、自分で体験しないと分かりません。只、人に
教えられて、その心が掴めるものではありません。人は、みんな感情に支配され、
弱さを抱え込んでいることには変わりありません。しかし、その弱い自分を認めつつ、
その弱さをはね除けて決断する勇気は、人それぞれに懸かっています。そして、クリス
チャンにとっては、その勇気の出所は、信仰によって生まれてきます。なぜなら、生まれ
つき弱い私たちでも、絶対主を頼って生きる道が開かれたからです。ですから、信仰の
当事者になろうとするなら、この絶対主に単純に信頼しようと決めることだけです。
それをしない人は、感情を押しのける勇気を持つ事が出来ず、幾ら時間を掛けて教えられ
ても、感情をはね除ける心は永久に出て来ません。人の弱さを押しのけるのは、御霊の
助けを受けて自分がする事柄です。ですから、この決断は、自分から離れてする別次元の
世界に入る事でもあるのです。決断は、自分に「出来る、出来ない」という事は関係あり
ません。決断は出来ると思うから決断するのではなく、それしか道がないから決断するの
です。自分の能力に根拠があるのではありません。それが、信仰の決断なのです。この
決断をしていくことが、信じる当事者になる秘訣です。
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