『コリントの被り物の件から、自分に都合の良い信仰ではなく、
絶対主にとって都合の良い信仰の在り方について』 |
パウロのコリント教会への勧めでは、「女性が絶対主に向かって祈りをしたり、預言を
したりする時は、頭に覆いを着けなさい」とあります。もし、それが嫌なら、「自分自身
の頭を辱めることになり、それは髪を剃られている事と同じです」と語っています。
被り物に関しては、日本人にとって馴染みのないものですから、この御言葉の理解に
苦しみます。しかし、聖書の御言葉は、昔も今も変わりません。ですから、「当時の習慣
としての勧め」と言うだけでは済まされません。当時の人は、パウロに言われるままに、
女性が丸坊主にすることは恥ずかしいことなので、女性たちは必ず覆いの布を被り
ました。では、何故このような勧めをパウロはしたのでしょうか。それは、絶対主が
創造の秩序を重んじる方であった為、その絶対主の意向に従ったからです。なぜなら、
創造の初めは、パウロが言うように「女は男から造られ、女は男のために造られました。」
ところが、「男は、直接的に絶対主によって創られ、男は、絶対主の栄光と形を持って
いました。」ここが本来大きく違うところです。ですから、被り物の件は、人の為という
より、絶対主の意向の為です。絶対主は、「女を男を基にして造り、男の助け手」として
造りました。ですから、本来はこうして、「女は、男に属する者」となったのです。
だから、「女の頭は男であり」と記されています。しかも、女は「御使いたちにさえ、
男に従う者であること」を表わす義務があったのです。そこで、パウロはコリント人へ
「女が覆いを付けずに絶対主に祈るのはふさわしいことでしょうか」と問いかけて
います。本来、聖書では基本的に、聖徒はキリストによって律法から解放されています。
ロマ書10章4節には「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法を終わ
らせられたのです。」(ヘブル7:18,10:9,エペソ2:15)とあります。
ですから、女性の被り物については、律法に基づくものではありません。ということ
は、律法から解放されたクリスチャンは、被り物を義務感でする必要はないのです。
すべて男も女も「キリストは自由を得させるために、私たちを解放して下さった」から
です(ガラテヤ5:1)。ですから、クリスチャンはすべてにおいて自由です。しかし、
パウロが言っているように「すべてのことが益になる訳ではありません。」これは、偶像
に捧げた肉と同じ論理です。肉は、食べても食べなくても良いのです。しかし、
「この自由が、弱い人々のつまずきとならないように、注意しなさい」(第Tコリント
8:8〜9)とあるように、私たちの場合は、「御使いのため」に配慮すべきことのよう
です。しかし、絶対主は単に御使いのことを言っているのでしょうか?
いいえ、違います。天地を造り、そこに秩序を置かれた絶対主自身のために、パウロに
書かせた書物です。ならば、クリスチャンは絶対主の意向を尊び、創造の秩序に基づい
て、この男と女の創造の秩序に従うべきではないでしょうか? 御言葉には、「もし、
女が覆いを付けないなら、髪も切ってしまいなさい。しかし、髪を切ったり、剃ったり
するのが女にとって恥ずべき事であるなら、覆いを付けるべきです」とまで、厳しい
言われ方をしています。一般的に、日本人のクリスチャンはこの被り物の件は避けたい
ところでしょう。日本の習慣にはないからです。しかし、クリスチャンは自分に都合の
良い御言葉には心を向けますが、「自分には出来ない」と思うと、頑なになって
そこに留まる癖があります。それも自由かもしれません。しかし、私たちが御国に入った
時に、絶対主の前に顔向けできるでしょうか? 本当は、罪人が謙って心を開き、
「出来る、出来ない」ではなく、「やるしかない」と心を変えて従って行くことを、
絶対主は願っておられるはずです。この下手に出る信仰の心こそ、救われた者の心では
ないでしょうか? 私たちが頑なになって「我」が勝ってはいけないのです。この事は、
全ての信仰の問題に適用すべきです。従うということは、実に勇気のいることです。
しかし、これが本当の生きた信仰です。自分に都合の良い信仰ではなく、絶対主にとって
都合の良い信仰の在り方を選択して行きましょう。 |
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