第Tコリント15章51節では、「あなた方に奥義を告げましょう。私たちは皆、
眠ってしまうのではなく、終わりのラッパの響きと共に、瞬きする瞬間に、一瞬に
して変えられるのです」とあります。この「終わりのラッパの響き」が起こる時とは、
いつのことでしょうか? これは第Tテサロニケ4章15〜16節では、主の再臨の時に
「主御自身が号令と御使いの頭の声と絶対主のラッパの響きによって天から下って来ら
れ、キリストにあって死んだ人々が最初に甦り、それから生き残っている私たちが、
彼らと共に雲に包まれ、主の出迎えのために空中に引き上げられるのです」と詳細に
記されています。これは、コリントに記されている内容と一致しています。即ち「終わり
のラッパの響き」とは、キリストが再臨されるときに、絶対主のラッパの響きが起ること
を指します。その時に眠っていた者が最初に復活し、次に生き残っていたクリスチャンが
天に引き上げられ、変えられるのです。この順序は第Tコリント15章23節で、キリ
ストの再臨の時、眠った人々の甦りの順序が明記されており、マルコの福音書にも「人の
子は、栄光と偉大な軍勢を従えて、数々の雲に乗って遣って来るのを人々は見ます。
そして、その時人の子は御使いたちを遣わして、地の果てから天の果てまで、四方から
彼の選びの民を集めます」(マルコ13:26〜27)とあります。こうして、御言葉に
は、最後まで患難時代を通った「勝利を得たクリスチャンたち」は、患難時代の終わりに
携挙され、主の再臨の時に栄光の体に変えられ、御霊の体を貰うのです。なぜなら、
「ラッパが吹き鳴らされると、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられるのです。」
と52節にあるからです。これで、明確に言えることは、絶対主の終わりのラッパが響く
主の再臨の時に、今のクリスチャンは死を見ずして一瞬に天に引き上げられ、変えられる
可能性があるということです。そして、数々の雲に乗ってやってくる偉大な軍勢の先輩
たちのクリスチャンたちと会うのです。そして、諸国民を打つため、イエス様に付き従う
のです。ですから、この望みの故に、堅く信仰に立って、動かされることなく、いつも
全力を注いで、主のわざに励みなさい。しかし、それは、あなた方の労苦が、主にあって
無駄にならない事を知っているのですから」とあります。この世にあって努力すること
も大切です。しかし、この世のことは、死を持って全ての労苦は消えていきます。
しかし、主のために労することは、永遠に消えることはありません。その報いは、死は
勝利に飲み込まれ、御霊の体に復活して、天の栄光の形に預かる事です。ですから、
クリスチャンは、決して負け犬で終わることはありません。たとえ、この世では取るに
足りない者でも、絶対主のために地道に労していった労苦は、天で大きな報いを得る
のです。ここで最後に、すごい奥義を告げましょう。第Tコリント15章41〜42節に
「太陽の栄光があり、月の栄光があり、星々の栄光があります。その星と星との間にも、
栄光の差があります。死人の復活も、またこれと同様です」とありますが、これはどう
いうことでしょうか?それは、労苦の差によって天での栄光の差があると言うことです。
労苦の差とは何でしょうか?それは、信仰の謙りから出てくる絶対主への熱き心
です。それは、単なる労働による汗をかいた労苦ではありません。謙りの心が伴う
信仰の汗をかいた労苦です。それは、目に見える働きの善し悪しでは決まりません。
ただ絶対主への熱き心で決まります。これなら、皆同じ競争ラインに立てます。
だからこそ、空を打つような拳闘ではなく、本物の賞を獲得するために走るのです。
これこそ、「いつも全力を注いで、主のわざに励む」意味があることなのです。
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