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2020年 NO.723


心の献身


 絶対主に捧げる信仰は、心のある献心でなければなりません。コロサイ書2:20〜23

には、「あなたがたは、何故この世で生きている者かのように、『すがるな、味わうな、

触れるな』などという規則にしばられているのですか?これらは皆、使い尽くせば滅びて

しまうものであり、人間の戒めや教えによるものです。これらのものは、自分勝手な礼拝

と、わざとらしい謙遜と、肉体の苦行とのためには、見せかけの知恵ある仕業に見えます

が、実は、放縦な肉欲に対しては、何の役にも立ちません。」とあります。ここでは、

絶対主が見せかけの信仰を嫌われていることが解ります。なぜなら、絶対主自身が

心からの救いを提供して下さったからです
それは、コロサイ1:21〜22にあるよう

に「あなたがたは、かつては悪い行いをして、絶対主から離れ、心の中で絶対主に敵対

していました。しかし、今では御子がその肉の体により、その死によって、あなた方を

絶対主と和解させ、あなたがたを聖く傷なく、責められるところのない者
として、絶対主

の前に立たせて下さるのです」とあります。「こんな罪人の私たちが、責められるところ

のない者として立たせてもらえる」なんて事が、(ただ)でして頂けるものでしょうか?

決してありえないことです。ところが、絶対主は、恵みによって御子の死により贖いを

完成して下さいました。これが、心の無い行為だと言えるでしょうか? とんでもあり

ません。絶対主は、初めから心のある御方でした。しかし、私たちは生まれながらに、

自分の損得勘定の激しい者ですから、自分が得することしか心に入れようとしません。

しかし、絶対主は魔物を抱えた罪人にも、贖いの恵みを注いで下さったのです。それなら

ば、この絶対主の心を知った私たちが、見せかけで形だけの献身では、恥ずかしくて顔を

上げることは出来ません
形だけの献身なら、律法的に行うことも出来ます。しかし、

絶対主は「生け(にえ)と捧げ物、又全焼の生け贄や罪のための生け(にえ)、即ち、律法に従って

捧げられるものを望まれず、好まれもしませんでした。」(ヘブル10:8)とあります。

ですから、絶対主自らが、ご自分の子であるキリストを生け贄とされたのです。ならば、

この救いに預かった私たちは、尚更、本物の心を持って、心の伴う献心を捧げるべきでは

ないでしょうか。しかし、心は、形には表れませんから、いくらでも誤魔化せます


しかし、心のある行動とか、心のない行動とかは、形に見えなくても分かるものです。

なぜなら、それは人には皆、同じ心があるからです。だから、「あの人は心のない人だ」

という批判も生まれます。まして、命を創られた絶対主が、人の心が解らない訳があり

ません。人の心は、絶対主にとって手に取るように解るのです。Tコリント書13:12

には「わたしが完全に知られていたように」とあります。ですから、今の私たちに求めら

れているものは、
心が溢れる信仰です。心を働かせない頭だけの信仰では、絶対主に信頼

されません
人間は、自分の心の中は自分しか解らないと(たか)(くく)っていますが、

もし、私たちの心が完全に絶対主に知られているなら、自分の行動の動機がどこにあるの

か、単なる見せかけのものなのかどうかは、すべて絶対主にはお見透(みとお)しです。

ならば、私たちの信仰は見せかけのわざとらしいものではなく、本物の心から出た献心

を自分の全身全霊を持って本気で表わして行こうではありませんか。絶対主には、心さえ

あれば通用します
たとえ、どんなに献金しても、心の伴わない献金は絶対主に受け入れ

られません。逆に言えば、どんなに弱く貧しい者であっても、真実な心の伴ったもので

あるならば、絶対主はアベルのように受け入れて下さるのです。頭でなく、心で勝負

しましょう


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