肉の真面目さと、霊的な真面目さとは違います。なぜなら、肉の真面目さは、どこまで
も生まれつきの罪人の性質から出ているものであり、霊的な真面目さは、新しい命から
でる霊的な考え方であり、根本的に違うからです。たとえば、永遠の命を求めた青年は、
子供の頃から「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をするな、欺き取るな、父と母を
敬え」と教えられ、その戒めを忠実に守って来た人です。しかしイエス様は、その青年
に「あなたには足りないものがあります。」と言われ、彼の真面目さが、永遠の命に
繋がるものでは無いことを指摘されたのです。すると、彼は顔を曇らせて悲しみながら
立ち去って行きました。そこで、イエス様は、弟子に言われたのです。「たとえ、子供
の時から戒めを守って来た人でも、富に望みを置いて来た人は、絶対主の御国に入るの
は、なんと難しいことでしょうか」と。ところが、その後では、なんと取税人ザアカイは
守銭奴でしたが、イエス様に寛大に受け留められました。そして、「今日、救いがこの家
に来ました。」と言われたのです。一体この違いはどこにあるのでしょうか。
一方は、子供の頃から戒めを守って来た真面目な青年です。しかし、もう一方のザアカイ
は、税金を不正に取り立て、私腹を肥やしていた嫌われ者です。なのに、どうして、真面
目な青年が退けられ、不正を行っていたザアカイが受け入れられたのでしょうか?
実に、私たちが考える地上の常識とは、かけ離れています。それは、肉の真面目さが、
絶対主の御心に適う事ではなかったからです。なぜなら、肉の真面目さは、どこまでも
罪人の心から出たもので、多くのクリスチャンは、肉の真面目さが、霊的な心だと勘違い
している人々が多くいます。もし、肉の真面目さが霊的な真面目さと同じであるなら、
生まれながらの罪人でも、絶対主に受け入れられる要素を持っていた事になります。
すると、どこまでも自分ありきで、罪人の自分を否定する必要がなくなります。しかし、
人は誰一人、義人はいないのです。ですから、イエス様は言われました。「自分を徹底的
に否定して、自分の十字架を負って私に従ってきなさい」(マルコ8:35)と。
すなわち、「罪人の自分を全面的に否定し、そして主に頼って従ってきなさい。」と
言うことです。ですから、主に適う霊的な者とは、「自分が100%罪人であること
をまず認め、肉の真面目さでは絶対主に通用しないことを知り尽くしている人です。」
たとえ真面目な心を持っていても、罪人に変わりないのですから、肉の真面目さは、
絶対主に受け入れられる保証ではありません。ザアカイは、100%自分を否定する
所から、イエス様に従って行こうとしました。しかし、自分が100%罪人である事を
思い知らされていない人は、自分を否定できず、自分の正しさで主に従って行こうと
するのです。そういう人は、絶対主に頼って生きていくのではなく、手っ取り早く自分
に頼って生きて行きます。しかも、自分の正しさを保ち続けようとします。すると、
自分が指摘されたり、怒られたりすると、必ず弁解するのです。なぜなら、頭では、
罪人であることを認めていても、「自分は真面目に、主に仕えて行こうとしているのだ」
という思いが頭に昇り、自分が否定されるのを素直に受け入れることが出来ないから
です。そして、「遣っていなくても、遣っていこうとしている自分を認めて欲しい」
と、反発するのです。これは、自分に頼っている未信者の心そのものです。ですから、
多くのクリスチャンは、肉の真面目さと、霊的な心の区別がつかないのです。それは、
自分がどうにもならない100%罪人の人間である現実を受け入れていないからです。
ここが分からない人は、100%絶対主に頼って遣っていくことが分かりません。
ところが、霊的な真面目さは、自分に不得意なことも、絶対主に頼ってトコトン遣って
行こうとします。でも、肉の真面目さで仕えて行こうとする人は、簡単に諦めて、自分
に出来ないと思うことは、遣ろうとしません。それは、自分の出来る力に頼っている
からです。だから、多くのクリスチャンは、努力を嫌うのです。それは、これ以上出来
ないと開き直るからです。これが、肉の真面目さに頼っているクリスチャンの特徴です。
しかし、霊的な真面目さは、自分は絶対主に全面的に罪人であることを認めていますの
で、絶対主にトコトン頼って最後まで努力しようとします。これが、絶対主に在って
生きて行こうとする人の正しい霊的な真面目さの証です。 |
|
|