ヘブル書は、古い契約の中に在るユダヤ人に対して、パウロが、エレミヤ書を通して
「絶対主が、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ日が来る」ことを解き
明かしています。古い契約とは、シナイ山で結んだ律法に基づく契約で、「あらゆる罪過
と不従順とに対して正当な処罰が加えられる」(ヘブル2:2)というものでした。
しかし、新しい契約とは、「キリストが、初めの契約のもとで犯した違反を贖うために
死なれた結果、召された者たちに約束されていた永遠の御国を受け継ぐための恵みの
契約」(ヘブ9:15)です。それは、エレミヤを通して、すでに旧約時代に絶対主が
約束されていたもので、イスラエル人に対するその新しい契約とは、「わたしの律法を
彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書き付けよう。こうして、わたしは彼らの絶対主と
なり、彼らはわたしの民となる。なぜなら、わたしは彼らの不義を憐れみ、もはや彼ら
の罪と不法を、決して思い出すことはしないからである」(ヘブ8:10〜12、エレ
ミヤ書31:31〜34)と言われた恵みの契約です。こうして、ヤハウェは、旧約聖書
のエレミヤ書ではっきりと語っておられたので、「初めの契約(律法)は古いとされ、
消えていくものだ」と言われたのです。それなのに、未だにイスラエル人は、その古い
契約(律法)に捕われているのです。この事は、今日のクリスチャンにとっても言える
ことです。それは、エサウが一杯の食物のために長子の権利を売ったように、クリスチ
ャンも絶対主の御国よりも、たった一時の世の利益のために、地上の損得に捕われる
からです。すなわち、未だに、クリスチャンは、古いこの世で、自分が崇められること
を求めているからです。しかし、聖書は「もし、真理の知識を受けた後にも、なお、
私たちが意図的に罪を犯し続けるなら、罪のための生け贄は、もはやあり得ません。
ただ、裁きと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」
(ヘブ10:26〜27)とあるように、クリスチャンが恵みの御霊を侮るなら、思い
刑罰に服することになります。もちろん、イスラエル人にとっても古い契約(律法)は、
絶対主に近づく人々を完全にすることは出来なかったのです。だから、彼らの多くは、
荒野で屍をさらしたのです。それは、彼らが絶対主に聞き従おうとせず、
絶対主に頼らなかったからです。同じように、クリスチャンも、自分に頼って、この世
で地上の利益を得たとしても、完全な救いを得ることは出来ません。すでに、恵みの
救いが現れた以上、この世のものは古びていくのです。ですから、私たちの生き方は、
新しい契約に従って生きて行くのです。イスラエル人に与えられた新しい契約は、キリ
ストの贖いを土台にしていました。それは、今日のクリスチャンにとっても新しい契約
は有効です。そして、その新しい契約の下で律法は廃止されました(ヘブ10:9)。
ですから、クリスチャンは自分に頼った律法主義から離れ、信仰の創始者であり、また
その完成者であるイエス様を仰ぎつつ、大胆に絶対主に近づき、トコトンキリストに
頼って行くのです。絶対主に近づくその大胆さは、絶対主のおられることと、ご自分を
求める者には報いて下さる方であることを、信じなければ成りません。それは、どこまで
も、自分ではなく、トコトン絶対主に頼って、私たちの前に置かれた競争を耐え忍んで
走り抜いて行くことです。昔の信仰者は、弱い者は強くされ、戦いによって勇者となった
のです(ヘブ11:34)。ならば、私たちも、信じる信仰を働かせて、弱い者でも、
強くされていくのです。そして、信仰の高嶺を目指して勝利するのです。信じることを
通さなければ、勝利はありません。それによって、信じる者に働く絶対主の全能の力が
如何に素晴らしいものかを、味わって行くのです。そして、自分の弱さに逃げること
なく、トコトン絶対主に頼って強くされて行きましょう。勝利する者は、自分の我を
砕いて自分の負けを認めるところから始まります。なぜなら、罪人だからです。自分が
勝っていては、トコトン絶対主に頼って行くことは出来ません。この真理を心に留め
悟りましょう。
|
|
|