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2020年 NO.719


喜びを失うクリスチャン


 キリストの恵みで救われたクリスチャンが、喜びを失う原因は何でしょうか? 

それは、ガラテヤ書5章4節にあるように、「律法によって義と認められようとしている

あなた方は、キリストから関係が切られ、恵みから落ちてしまったのです。」と記されている

通り、信じた後に律法を入れ込んでしまうからです。本来人間は皆、律法主義の下で教育され

ています。しかし、クリスチャンはキリストの救いによって、負い切れなかった律法から解放

され、律法の下から贖い出されました。それは、「キリストが律法を終わらせて下さったから

です。」(ロマ10:4) ですから、クリスチャンの救いは「ただ、絶対主の恵みにより、

キリスト・イエスによる贖いの故に、価なしに義とされる」ことでした(ロマ3:24)。

だから、この恵みの御蔭(おかげ)で、信じた初めの頃は心が軽くされ、救われた恵みを喜び、キリスト

に仕え絶対主のために何でもしていきたいと思ったほどでした。しかし、しばらくすると、

肉の性質が一つも変わっていない現実を思い知らされ、落胆させられてしまったのです。

それもその(はず)、救いは、どうにもならない罪人のためにキリストが贖って下さった救いで

あり、罪人の人間が、自分の救いのためには何一つ努力していませんでした。だから、罪人の

ままの自分を救って下さったキリストに、感謝と喜びを抱いていたのは事実ですが、だからと

いって自分は、「救われる前の自分と少しも変わらない」ということを気づかされるのに、

そんなに時間は掛かりませんでした。だから、クリスチャンが罪から救われた者と言えども、

罪人に変わりは無い「救われた罪人であった」
ということです。すなわち、クリスチャンは

救われたからと言って、正義感を振りかざせるような人間に生まれ変わった訳ではありません


なのに、救われた者だからと、何故かまた、自分に律法を()せて、クリスチャンらしくあらね

ばならないと思ってしまったのです。それが、ガラテヤ書の内容です。すると、クリスチャン

は信じたときに味わった喜びは、どこかに吹っ飛んで行ってしまい、「単なる苦しみチャン」

になって行くのです。これでは、キリストの死が無意味になり、恵みから落ちてしまって、

キリストから関係が切れてしまいます。では、どうすれば良いのでしょうか?

 それは、ガラテヤ書219節にあるように、「私は、絶対主に対して生きるために、律法に

よって律法に死にました」と言うところに戻ることです。どういう事かと言いますと、クリス

チャンは、キリストを信じて生きていく為に、律法に対して死んだのですから、自分の力に

頼って生きない
という事です。なぜなら、律法によって生きようとすると、自分の力に頼る

ことになります。自分の力に頼り始めると、自分の限界を思い知らされ、人は喜びを失います。

だから、全能主の力に頼って生きることを徹底することです
なぜなら、「信じて御霊を受け

たのは、律法を行ったからですか、それとも、聞いて信じたからですか?」一体誰が惑わせ

たのですか? ルシファーでしょう。それなら、今になって肉の力で仕上げる必要は無いで

しょう。私たちは、どこまでも信仰によって全能主に頼って生きることに徹して行けば良いの

です。

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