私たちの命は、「死ぬことのない命」です。それは、永遠の命を頂いたからです。
しかし、この肉の体は、「死ぬ体」です。それは、キリストの救いを受ける前は、自分の
罪過と罪の中に死んでいた者であったため、この命は、地上で命を閉じた時に「火の
燃える地獄の中に投げ込まれる者」でした。(黙示録19:20、マタイ5:22)
ところが、「御子を信じる者は一人も滅びることなく、永遠の命を持つ。」 (ヨハネ3
:16)とあるように、この肉の体は死んだとしても、キリストによって「死ぬことの
ない命」とされたのです。ですから、この永遠の命とは、この肉体のままの命ではあり
ません。それは、御国に入るときには、朽ちる体が御霊の体に変えられる体である
からです。「肉の身体があるのですから、御霊の身体もあるのです。」 (Tコリント
15:44)とあるように、御子を信じる者は御子の贖いの故に、この新しい命と
新しい御霊の体を持つのです。ということは、私たちは「死ぬことのない命」を与えら
れているということです。それならば、この肉の体が殺されても、それ以上何の権威も
持たない者を恐れる必要はありません。それは、たとえ悪魔であっても恐れる必要は
ないのです。現に悪魔は「永遠の死」が定められていますが、クリスチャンは「決して
死ぬことのない命」を持っています。だから、悪魔に立ち向かいなさい(第Tペテロ5:
9)とあるのです。それなら、私たちも「死ぬことのない命」を持っているのですから、
私たちは人を恐れることなく絶対主を第一にして、どこまでも「絶対主を信じることは、
当たり前」という生き方を大胆に始め出すべきです。ただし、この「死なない命は」
決して「死ぬことのない体」と誤解してはいけません。あくまでもこの地上の体は、
肉の体ですから「チリで創られた者は、チリに帰ります。(創世記3:19)」
しかし、「霊は、これを下さった絶対主に帰ります。(伝道者の書12:7)」 ので、
「現在のこの命は、決して死なない体ではなく、死なない命」という ことです。
このことを踏まえて、これからの私たちは、この世の人間に迎合する生き方をする必要
はありません。むしろ、絶対主にいつも心を向けて、絶対主の側で考え、絶対主にあって
判断し、絶対主にあって決めていくのです。こんなシンプルな生き方は他にありません。
このことは、全てがキリストの贖いの御蔭です。ですから、クリスチャンは「絶対
主に受け入れられた者として、信仰によって生きる」のです。この信仰によって生きる
具体的な行動は、ジョージ・ミュラーさんの生き方を真似することです。それは、
「主を信じる事は、当たり前」、また「主に信頼することも、当たり前です。」という
生き方です。ということは、クリスチャンの地上での生き方は、絶対主の全能の力に
よって、強くされ続け、「絶対主にとって不可能はなく、私は私を強くして下さるキリ
ストによってどんなことでも出来るのです」という信仰に立って、これから「絶対主の
集大成」のために用いて貰うのです。この波に、乗り遅れてはいけません。
一人一人が、心を開いて大胆になり、「信じる者に働く全能の力」を大いに味わって
行きましょう。それは、信じることを諦めない貪欲な行動です。ビビって弱気になり、
行動を取らないのは「死なない命」を持っている者として、勿体無い生き方
です。ですから、これからは「生きている内に味わえる全能の力」を貪欲に求め続けて
行きましょう。
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