律法と恵みは正反対の真理です。しかし、これは人間に示された絶対主による真理の
二面性です。例えば、聖書では「信仰の故に律法を無効にするのでしょうか。 決して
そうではありません。かえって、信仰によって律法を確立するのです。」(ロマ3:31)
と、律法を肯定的に捉えています。しかも、ペテロの手紙では、「絶対主は聖である
から、あなた方も聖であるべきです」とあります。しかし、もう一方では「律法を行う
ことによっては、誰一人絶対主の前に義と認められないのです。むしろ律法によっては、
罪の意識が増すだけです」(ロマ3:20)とあり、「キリストは、全て信じる者に義を
得させるために、律法を終わらせられた」(ロマ10:4)と、律法を否定的なものとして
捉え、律法は既に廃棄されたものとして(ヘブル7:18、10:9、ガラ2:15)
記るしています。すると、このような二面性の中で、クリスチャンはどのように聖書を
理解し、どのように聖書的な生き方をすればいいのでしょうか? 確かに律法は聖なる
ものであり、戒めも聖なるものです。しかしながら、人間は生まれながらに肉に属する
ものであって、罪の下に閉じ込められた者でした。だから、律法は、罪の意識が
増すだけで、律法によっては誰一人絶対主の前に義とされる人はいないというのが現実
です。それなのに、「律法は確立するもの」というのは、矛盾に満ちており、この二面性
の中で、私たちはどうすれば良いのか分からなくなってしまいます。そこで、聖書は、
こんな罪人の私たちに、律法とは別に絶対主の前に義とされる救いを提示されました。
それは、「ただ絶対主の恵みにより、キリストイエスによる贖いの故に値なしに義と
される」というものです。これは、絶対主の恵みによることで、全て信じる人に与え
られ、何の差別もありません。なぜなら、キリストが全ての罪人の贖いの代価として、
御自身を献げて下さったからです。ということは、律法は、キリストが来るまでの間、
人が違反者であることを啓示するだけのものであって、律法は、遜ってキリ
ストの救いを求めるように促すための役割であった訳です。ということは、生まれなが
らに罪の中にあったものは、元々恵みによって救われるしかなかったのですから、初め
から律法に従って生きることは諦めるしかなかったのです。
ところが、テモテ1:5節を見ていくと、パウロはテモテに命令し、キリストを信じる
者は「きよい心と、正しい良心と、純真な信仰からでる愛を目標にして生きて行きな
さい」とまた律法的に命令しています。しかし、このような「きよい生き方」を求めら
れても、元々律法を守るだけの力がない者に、できるわけがありません。それでは、
恵みが恵みでなくなってしまいます。しかもパウロは、「人は誰一人律法によって義と
される者がいない」とはっきり明言していながら、尚、信じた者たちには「信仰によって
律法を確立するように」と言い切るのです。これをどのように解釈すれば良いのでしょう
か。その答えは、やはり聖書の中にあります。ガラテヤ書3章11節には「絶対主に
受け入れられた人は、信仰によって生きるからです」とあります。確かに私たちは、
信じる前には、絶対主の御心を行う力はありませんでした。しかし、絶対主に受け入れ
られた人は、「絶対主にとって、不可能はありません」(ルカ1:37)とありますの
で、「私は、私を強くして下さるキリストによって、どんなことでもすることが出来
ます」(ピリピ4:13)という生き方をして行くべきなのです。ここに、「信仰に
よって律法を確立する」という御言葉が実現します。私たちクリスチャンは、この御言葉
を大胆に信じる心を持つ事が求められています。それは自分の力で無理矢理すること
ではなく、信仰の故に始め出す行為なのでしょう。なぜなら、信じた者は、「絶対主を
信じるのが、当たり前」だからです。ここに、「信じる者は、信仰の故に律法を無効に
しない」という生き方があります。ですから、ここに真理の二面性を矛盾なく受け止め
ていく道があるということです。この真理をクリスチャンは遜って受け止め、信じる
勇気を持って歩み出すべきなのです。
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