人の命は自然が作り出した偶然の産物ではありません。なぜならば、人の命の仕組み
は自然が作れるような代物ではないからです。現に、この地球上の一切合切の生き物、
すなわち鳥、獣、這うもの、また木、草、花などの命あるものは皆、自然に出来上がった
ものではありません。なぜなら、生き物は全てDNAという設計図によって組み立てられ
ており、自然にはその設計図を描く人格がないからです。ですから、生き物を自然が勝手
に作り出せるという進化論の仮説は間違っています。命は命あるものが創り出すのです。
その命を創り出す事のできるお方を、聖書では「絶対主」と啓示(啓示とは、神が人間に
対して、人の力では到底知ることのできないようなことを顕すこと)(日本国語大辞典
より)しています。絶対主は、人間の命を創られ、人間の命を司り、支配して
おられる方です。実は、そういうお方がいらっしゃらなければ、人間は命を持って存在
することは出来ません。人間はいろいろ考え、また悩みもします。そして、いろいろな
判断も行います。このような性質は、こうした性質を持った人格者がいらっしゃって
こそ、初めて人に与えることが出来る能力です。
また、人には、精神があり理性があります。それは、崇高な精神をお持ちである創造主
が、この精神を人に与えられたからです。絶対主は、「我々の似姿に、人を創ろう。」
(創世記1:26) と言われました。ですから、創られたもので、このお方によらずに、
存在しているものはありません。その証拠に、人は幾ら自分で考える能力があっても、
自分の思い通りの主権を行使できる者ではないからです。はっきり言って、「人は、幾ら
思い煩ったからと言って、自分の寿命をわずかでも延ばすことは出来ません。」という
ことは、私たちがこれまで当然「自分の命は自分のものだ」と思ってきたことも、よく
考えて見ると「自分のものではなかった」という事が分かって来ます。
すなわち、この命は、「与えられた命」ということです。このように、与えられたもの
なら、「命は自分のものではなく、与えた方のもの」です。ですから、私たちは自分の
思い通りに生きて行こうとする考えは間違っています。すると、私たちは、絶対主の考え
に従って、信仰によって生きて行くのが筋ではないでしょうか。これが分かれば、私たち
は「自分の思い通りに決める」と考えていたことを改めて、「絶対主に聞いて判断する」
という生き方に変えて行くべきです。今までは、当たり前のように自分の損得で決めて
来ました。
しかし、この損得勘定はクリスチャンの生き方ではありません。これは間違っていた
のです。では、どのように改めていけばいいのでしょうか?それは、絶対主を中心に物事
を考えて行くようにすることです。これは信じた者にとっては当然の事ですので、確信を
もって心の中にストンと入れるべきです。しかしながら、私たちは命の創造主がおられる
ことが分かっても、「自分の思い通りにしたい」という肉の願望は、なかなか無くなり
ませんので、思い通りにならないと「嫌だ」と言う思いが働き、つい生まれながらの
「我」に走ってしまいます。だから、絶対主に逆らい続けてしまうのです。しかし、
それでは「信じる者に働く全能の力」を味わい知ることが出来ませんので、自分の信仰
による決断によって、自分の思いを砕き、我を明け渡して、絶対主に従って行くという
心に変えて行くべきです。クリスチャンには、この信仰の決断があるのみです。
時は縮まっています。ですから、私たちはこの道理に従って始め出すかどうかに掛かっ
ています。あえてこれを拒否すれば、「与えて頂いた命」をただ虚無に服するだけで
終わってしまいます。「絶対主に受け入れられた人は、信仰によって生きる。」これが、
クリスチャンの信仰の土台です。
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