クリスチャンが救いを経験すると、多くの人が喜びの中で「イエス様のためなら、
何でもしたい」という献身の思いを抱きます。そして、主のために「何か遣りたい」、
「何かやろう」という心を持って行くことは、自然な流れです。しかし、その「何か」
というのが「曲者」です。なぜなら、多くの場合自分の気持ちで考えた善し悪しで始め
だし、自分の好みでやろうとしてしまうからです。これは、絶対主の御心を確かめた
上での判断なら良いのですが、多くのクリスチャンは自分勝手な勘で良いと思って
始め出そうとするのです。なぜなら、信じる前までは、すべて自分の気持ちが優先し、
判断していたからです。しかし、その判断がすべて絶対主の考えと同じという訳では
ありません。それは「こうすれば絶対主に喜んでもらえるだろー」という自分の勘です。
そして、絶対主のためにすることだから、「絶対主が必ず助けてくれるはずだ」と勝手
に決め込むのです。これは所謂「絶対主を利用すること」で、「自分ありき」の考え
です。この奉仕のやり方は間違っています。それを多くのクリスチャンは分かっていま
せん。なぜなら、絶対主のためにすることは、「絶対主の考えを確かめた上でする」と
いう道筋を通ろうとしていないからです。ところが、この「自分ありき」から完全に
離れて、「絶対主ありき」を貫いた方がいます。それが、ジョージ・ミュラーさんです。
彼は、たくさんの孤児が巷に溢れているのを見て、「何とか助けてあげたい」と思い
ました。それは、クリスチャンになると、みな博愛精神を持つことは正しいと思うから
です。しかし、現実は牧師をしていますので、自分が生活するだけで精一杯です。人を
助けたくても、助ける力を持っていません。ところが彼は、諦めずに絶対主に御心を
尋ねて求めて行きました。すると、「孤児の父は絶対主だ」という御言葉に行き当たっ
たのです。それなら、「天の父が、孤児を養って下さる」と確信して、始め出しました。
しかし、そうは上手く行きません。やはりお金がなければ、食事を与えることも、孤児
を寝かせる部屋も提供できません。孤児の面倒を見るということは、食べ物はもちろん
の事、着る物も教育も 家も必要です。その為にいるのは全部お金です。そこで、もし
募金を集めようとして始め出したら、一生涯募金集めのために労し、人頼みになって
しまいます。「それを生涯やり続けていくことが出来るか、というと出来るわけがない」
のです。では、どうするか?絶対主に任せよう。「絶対主が孤児の父なら、必要な家も、
食料も全部天の父が用意して下さる。そのように聖書に書いてあるのだから」と、彼は
確信し、人に頼ることなく、また自分の考えで行うのではなく、絶対主に信頼して孤児院
を始め出したのです。そんな中で、絶対主は延べ2万人以上の孤児を育て上げて下さい
ました。彼は決して「献金してくれ」と手紙を書き続けた訳では有りません。全て絶対主
に頼り、絶対主がして下さったことだったのです。これが、「絶対主ありき」の生き方
です。しかし、私たちはどうでしょうか? 結局、絶対主ではなく、「人に頼り、世に頼り、
自分に頼る」のではないでしょうか。そして、如何にも絶対主に頼っているが如くに、
自分を正当化しているのではないでしょうか? これは大きな間違いです。「自分ありき」
の信仰は、「自分は駄目だ」という世界に陥ります。それは自分に頼っていけば、全部
自分が負うことになるからです。私たちは、駄目な罪人の自分に頼っても、何も出て
来ません。だから、はっきりと自分から離れて「絶対主ありき」に立つのです。即ち、
絶対主の考えに、自分の意識を常に向けていくのです。それを無意識の行動になるまで、
していくのです。これが信じる者の「絶対主ありき」の信仰です。ですから、私たちも
ミュラーさんのように徹底的に絶対主に頼り、それが、聖書の御言葉通りに通用する
ことを、自分の信仰の生き方を通して証して行きましょう。その為には、まず自分から
離れ、絶対主に信頼する勇気を持って行こうではありませんか。
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