イエス・キリストは、人間の罪の身代わりとして、絶対主が送って下さった救い主で
す。その御方が我々の罪の債務証書を全部無効にされ、しかも、その債務証書を十字架
に釘付けにして下さいました。ということは、「私たちの罪の債務が完全に破棄された」
ということであり、それなら、もう苦悩に満ちた罪人の人生を送る必要は無いのです。
即ち、クリスチャンは、「新しい命の中で歩む者」となったのです。こんな、立場を
頂いたのなら、その生涯を大胆にキリストのために生きて行っていいのです。しかも、
「自分は新しく創られた者であり、古いものは全て過ぎ去った。」とも言われているの
ですから、もう古い自分の性格に捕われる必要は無く、ただ絶対主の意向に沿った生き方
を始め出して、「イエスキリストに自分の心と、その生涯を懸けて行こう」と思うのが、
信じたクリスチャンの自然な姿です。これは絶対主の心に適った考え方です。決して自分
勝手な思い上がりではありません。それでいいのです。ただし、「古い自分は過ぎ去っ
た。」と言われているのですが、それはアオリスト形ですから、現実的には古い自分は
間違いなく存在し、新しい生き方をしたいと思いつつも、失敗してしまうのも現実です。
しかも、絶対主の意向に沿って歩み出そうとしたとしても、なお古い自分の性質に捕われ
て失敗しては怒られることも多々あります。しかし、それは新しい生き方から離れたの
ですから、牧師から怒られても当然のことです。その時は、遜って悔い改めていけばいい
のです。しかし、怒られると「自分は駄目だ」と思って、また古い自分に戻って「新しい
生き方は出来ない」と思うのは不信仰であり間違っています。悪魔は、「私たちが絶対主
の意向に沿って歩むことを妨げて馬鹿にし、そんな生き方は欺瞞だ、おまえの性格は罪に
まみれた失格者だ、それなのに綺麗事の『新しい生き方など、罪人に出来るはずがない
だろー』」と言って、責め立ててきます。すると、私たちは、失敗し怒られているのが
現実ですから、その現実を変えることは出来ないと思い「新しい生き方をすることは無理
だ」と諦め、「駄目だ」と古い自分に戻ってしまうのです。しかし、そんな時は、
「古い自分は過ぎ去った」というのは、アオリスト形だと思い出すべきです。そして、
私たちはキリストの贖いを頂いているのは事実ですから、たとえ、欺瞞だろうが、大見栄
だろうが、「新しい心を持って絶対主の考えに立ち、絶対主の意向に従って生きて行こう
とする生き方に戻ることは正しいのだ」と、思い返すべきです。それを、諦めて弱気に
なり、古い生き方に戻るのは、悪魔の策略に填まるだけで、それは、明らかに間違い
であり不信仰です。幾ら、罪人であっても、クリスチャンは絶対主を信頼して、大胆に
従って行く道を突き進むのは、正しいことです。だからこそ、いい意味で大見栄をはっ
て、罪人であることを認めた上で、「新しい命の中で歩み続けて行く生き方」を大胆に
表わして行くべきです。「新しい生き方」とは、ひたすら、絶対主に好意を持たれる
生き方です。それは、「絶対主の側で考え、絶対主に聞いて行こうとすること」だから
です。これは具体的には、ジョージ・ミュラーの生き方を真似ることですから、図々しく
新しい命の中で歩み続けることは、クリスチャンにとって正しい生き方ですから、安心
して始め出してください。
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