キリシタン武将の朝長純安さんという方が言われました。「本当の信じる心
とは何ぞや。ただイエス様を信じ、そしてイエス様のために生きる。これが土台だと思い
ます。しかし、それだけでは人はやっていけません。だから『信じる心は何ぞや!』と
いうことを追求してきました。」と、記しています。そこで、今日「信仰とは何ぞや!」
について考えます。信仰とは、辞典では「神仏などを信じ尊ぶこと。また、一般的に信頼
して疑わないこと。」とあります。では、クリスチャンから見て「信仰とは何か?」と
言いますと、「絶対主の心に沿った考えを持ち、絶対主のお考えの中で働き、絶対主の
ために生きることです。すなわち、聖書のメッセージに自分の心を合わせ、聖書に書いて
あることは今日も起こると信じて、絶対主をどこまでも第一とし、自分の考えに
立たないこと」です。この生き方は信じた者の「純な生き方」です。純とは、「他の物
が混じらないこと」で、クリスチャンが、絶対主を信じたのならば、「ひたすら絶対主
の考えを自分の考えとし、絶対主の国と絶対主の義を求めて、この世の考えに惑わされ
ない生き方をすること」です。しかし現実は、この身は、この世の中にどっぽり浸かって
いますから、この世を無視することは出来ません。しかも、生きて行くからには、この
世に対して生きていますから、この世のルールに従わなければなりません。すると、
クリスチャンは、この二つの考えの中で板挟みになります。そこで、まず絶対主を信じた
者として、絶対主を中心に考えて行こうとすると、この世の生活が成り立ちません。
しかし、生活を第一に考えていくと絶対主を中心に出来ません。この相反する二面性を
両立して生きて行く為には、どうすればいいのでしょうか?この両立は、現実に無理で
す。そこで、この矛盾をどのように解決して行くかと言いますと、イエス様の言葉を思い
出すべきです。イエス様は、マタイ伝で「誰も、二人の主人に仕えることは出来ません。
というのは、人は一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方の側について他方を軽んじる
からです。あなた方は、絶対主と富に仕えることは出来ません」(6:24)と言われ
ました。ここで、イエス様が「誰も二兎追うことは出来ない」と言われたように、私たち
は、この世と絶対主の二兎追うことは出来ないのです。どちらかを諦めないといけません。
となれば、クリスチャンは絶対主を諦めることは出来ませんので、この世を諦めるの
です。では、この世でどのように生活して行けばいいのでしょうか。聖書は「こうしな
さい」と書いてあります。それは、「まず第一に、絶対主の国と絶対主の義とを追い求め
続けなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられます」(マタイ6:
33)とあります。この御言葉を信じることを、「甘い」と言う人もいるでしょう。
しかし、もしそのように「甘い」と言うのなら、辞典で信仰とは「疑わないこと」、又
純とは「他の物が混じらないこと」とありますので、一般常識からも反することになり
ます。ですから、クリスチャンは「聖書に書いてあることは今日も起こる」と、大胆に
信じなければ成りません。ということは、クリスチャンは聖書のメッセージに自分の心
を合わせ、純を通すことです。この純を通すことを、絶対主は信じる者に味わわせたいの
です。なぜなら、人に出来ないことでも、絶対主にはできるからです。ですから、この
純な信仰の一本道を通して、「信仰とは何ぞや!それは、純な信仰の結晶である」と
証して行きましょう。
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