ショートメッセージ
  
  
教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室
2020年 NO.742


信じる心とは何ぞや!
−純な信仰の結晶


 キリシタン武将の朝長(ともなが)純安(すみやす)さんという方が言われました。「本当の信じる心

とは何ぞや。ただイエス様を信じそしてイエス様のために生きるこれが土台だと思い

ます。しかし、それだけでは人はやっていけません。だから『信じる心は何ぞや!』と

いうことを追求してきました。」と、記しています。そこで、今日「信仰とは何ぞや!」

について考えます。信仰とは、辞典では「神仏などを信じ尊ぶこと。また、一般的に信頼

して疑わないこと。
」とあります。では、クリスチャンから見て「信仰とは何か?」と

言いますと、「絶対主の心に沿った考えを持ち、絶対主のお考えの中で働き、絶対主の

ために生きることです。
すなわち、聖書のメッセージに自分の心を合わせ聖書に書いて

あることは今日(こんにち)も起こると信じ
、絶対主をどこまでも第一とし、自分の考えに

立たないこと」です。
この生き方は信じた者の「純な生き方」です。とは、「他の物

が混じらないこと」
で、クリスチャンが、絶対主を信じたのならば、「ひたすら絶対主

の考えを自分の考えとし、絶対主の国と絶対主の義を求めて、この世の考えに惑わされ

ない生き方をすること」
です。しかし現実は、この身は、この世の中にどっぽり浸かって

いますから、この世を無視することは出来ません。しかも、生きて行くからには、この

世に対して生きていますから、この世のルールに従わなければなりません。すると、

クリスチャンは、この二つの考えの中で板挟みになります。そこで、まず絶対主を信じた

者として、絶対主を中心に考えて行こうとすると、この世の生活が成り立ちません。

しかし、生活を第一に考えていくと絶対主を中心に出来ません。この相反する二面性を

両立して生きて行く為には、どうすればいいのでしょうか?この両立は、現実に無理で

す。そこで、この矛盾をどのように解決して行くかと言いますと、イエス様の言葉を思い

出すべきです。イエス様は、マタイ伝で「誰も、二人の主人に仕えることは出来ません。

というのは、人は一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方の側について他方を軽んじる

からです。あなた方は、絶対主と富に仕えることは
出来ません」(6:24)と言われ

ました。
ここで、イエス様が「誰も二兎追うことは出来ない」と言われたように、私たち

は、この世と絶対主の二兎追うことは出来ないのです。どちらかを(あきら)めないといけません。

となれば、
クリスチャンは絶対主を(あきら)めることは出来ませんので、この世を(あきら)めるの

です。では、この世でどのように生活して行けばいいのでしょうか。聖書は「こうしな

さい」と書いてあります。それは、「まず第一に、絶対主の国と絶対主の義とを追い求め

続けなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられます」(マタイ6:

33)とあります。この御言葉を信じることを、「甘い」と言う人もいるでしょう。

しかし、もしそのように「甘い」と言うのなら、辞典で信仰とは「疑わないこと」、又

純とは「他の物が混じらないこと」とありますので、一般常識からも反することになり

ます。ですから、クリスチャンは「聖書に書いてあることは今日(こんにち)も起こる」と、大胆に

信じなければ成りません。ということは、クリスチャンは聖書のメッセージに自分の心

を合わせ、純を通すことです。
この純を通すことを、絶対主は信じる者に味わわせたいの

です。なぜなら、人に出来ないことでも、絶対主にはできるからです。ですから、この

純な信仰の一本道を通して、「信仰とは何ぞや!それは、純な信仰の結晶である」

証して行きましょう。

 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室