クリスチャンがイエス様を信じた時、イエスキリストを信じていく生涯は「この聖書の
中に書いてある事を、そのまま信じていく生涯だ」と思ったことでしょう。そして、
聖書を信仰の土台として、読み始めた筈です。なぜなら、聖書の御言葉を通して信じた
からです。ですから、ここに書かれていることが信仰の道であり、キリストを信じた者
たちには、聖書が教えている通り「聖書に書いてある事は、当然自分たちにも起こる事
だ」と思って読み始めたはずです。そして、牧師である私も、信じた後にすぐに聖書を
読み始めましたので、「イエス様を信じた者には、こんなことが起こるのだ」と思いな
がら聖書を読んで行きました。そして、使徒行伝を読んでいく中で、ペテロさんとパウロ
さんの生涯の記事を見て、魂が燃えました。それは、信じた者には、そこに働かれる
イエス様がおられ、今日も同じようにイエス様は私たちの主で、私たちと共におられる
御方だから、「私もその純な信仰の生き方をしたい」と思いました。そして、「それが
本当に通るのか試したい」と思いました。なぜなら、 聖書のメッセージは、信じた者に
は平等に働かれる絶対主のメッセージだと思ったからです。ところが、現実には聖書の
通りにならない事が一杯出て来ました。それは、神学校の学びの中でも知ったのですが、
「今の時代は、聖書が全て完結しており、絶対主の御心は聖書を通して全て知らされて
いる。だから、聖書が完結する前は、イエス様はしるしや奇跡や癒しを通して「弟子たち
が語って来たことは確かなことだよ」と示して行かれました。しかし、「聖書の完結した
今は、聖書があるのですから、しるしや奇跡がなくても、聖書の言葉をそのまま信じたら
いいのです。」今は、「聖書の時代のように、しるしや奇跡を求める時代ではないのです」
と教えられていたのです。即ち「信じるだけで良いんだよ」と。しかし、そんなことが
聖書に書いてあるでしょうか?私は正直なところ「信じるだけでは足りない」と痛感して
いました。なぜなら、イエス様は、罪人を救って下さったのですが、自分が罪人である
ことは、信じる前も信じた後も変わりません。ですから、この力の無い罪人が絶対主の
ために何が出来るのでしょうか?そんな中で、聖書を見ていくと、使徒たちは絶対主から
受けた聖霊の強力な力で、以前の臆病な弟子たちも、この世を恐れずに命を懸けてキリスト
を証して行く姿に換えられたのです。それなら、私も力を頂いてその生き方をしたい。
なぜなら、聖書に書いてある事は、昔も今も変わらないのですから。あの臆病な弟子たち
も、力を頂いて大胆に証して行きました。なのに、私たちがその通りでなかったなら、
「聖書をそのまま信じる私たちは、いったい聖書の何を信じれば良いんだ」と思ったので
す。そこで私は、この純な信仰の気持ちで、「聖書をそのまま信じていく試しをしたい」
と思い、始め出しました。そして、自分の生活も、絶対主に委ねました。弟子もそうし
ましたから、それが本当に通用するのか、絶対主を第一にして生きていく事で、生活の
事も絶対主に委ねて通用するのか?私はそれを確かめたいと思い、ここまで来ました。
そして今、それが通用する事を味わっているのです。ですから、純な信仰の心とは、
「聖書をそのまま信じる心です。」と、確信を持って証したいのです。
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