聖書には「悔い改め」ということばが良く出て来ます。この「悔い改め」という意味
は「罪を悔いてその行いを改めなさい」と捉えるのが一般的です。しかし、罪人の
人間にとって、「罪を悔いる」ことは出来ても、「改める」ことはなかなか難しいこと
です。それは、たとえクリスチャンであっても、罪を犯して責められた時「悔い改め
ます」と言って赦してもらおうとしますが、その時「悔い改めます」と言っても、
「本当に改めるか?」と問われると、その場ではしおらしく涙を流して「改める」と
表明しても、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺の如く、悔いる心も
時間と共に忘れ去ってしまうというのが、人間の心です。この心は大人になっても
変わらない罪として身に付いています。ですから、安易に「悔い改める」という言葉を
使うと、人は偽善者のように良心が麻痺していきます。
そこで新たに広辞苑で調べて行きますと、「悔い改める」とは、「悪事や過失を悔いて
善に向かうこと」とあります。ですから、この広辞苑の解説のように、私たちは「悔い
改めます」と言うとき、善に向かいますと、自分の決心を表明することになります。
しかし、聖書では旧約聖書を見ると「立ち返る」という意味として用いられており、
新約聖書では「メタノエオー」というギリシャ語は「心の転換」を意味する言葉として
用いられています。ですから、日本語の「悔い改め」という広辞苑の意味とは、大きく
違って来ます。すなわち、聖書の言葉の意味は、「単なる後悔やその場凌ぎの
打算的な謝罪ではなく、深い罪の認識の伴う心の転換がされて行くもの」と捉えている
のです。これは、人の人格にかかわる根本的な転換であって、自分を中心として生きて
来た生活から、絶対主を全生涯の土台とする考えに改めていくことを前提にして語ら
れているものです。ですから、聖書で語られている「悔い改め」は、言葉を変えると
「絶対主に聞き、全てを絶対主の考え方で決断して決めて行く生き方」への転換です。
ですから、聖書の「悔い改め」という語を、「考えを入れ替える」という言葉に改めて
行きたいと思います。この場合、「悔いて善に向かう」というより、「悔いて、心の
転換を謀る」という意味に取り替えて理解して頂く必要があります。ですから、キリスト
の救いを「信じる」という行為は、「後悔の念を抱いて救いを求める」というものでは
なく、今まで信じていなかったものを「信じる」方向に心を変えて行く心の決心であり、
絶対主をまず第一にして、生きて行くことの決断なのです。具体的には、自分のために
生きて来た生き方から、絶対主のために生きて行く生き方に変えて行くことです。です
から、絶対主の言葉の実現のために、この世の損得から離れて絶対主のために自分自身
と手足を献げ、絶対主の集大成の働きのために「RUMとEDミッション、10万人
教会、ノアの箱舟ミュージアム、バイブルランド」の実現のために全身全霊を用いて
行くことです。このために召された者として、この教会の使命を一日も早く実現して
行きたいと思います。そのためには、まず一人一人の心の転換と、絶対主の御心の実現
のために、熱い信仰の心意気を注ぎ出して行こうではありませんか。主はその熱い心を
待っておられます。あとは、皆さんの心の転換の決心に懸かっていますので、もう信仰
の初歩の教えに留まることなく、十分に成長した者として、これまでの経験を生か
して前に進んで行きましょう。このメッセージに心動かされる方は、絶対主の側に立つ
者として、スタートラインに立ったのですから、一緒に、主の同労者として力を頂き、
世の終わりの集大成のために働き出しましょう。
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