人は生まれ育つ中で、国による学校教育が施されて行きます。その教育は、真面目な
良い行いを表して行く者が「良い子」とされており、聖書が語る教育とは随分違いが
あります。なぜなら、聖書は「律法によっては絶対主の御前で義と認められる者は一人
もいない」(ガラ3:11)と記されているからです。すると、クリスチャンは「正しい
行いをしなくてもいいのですか?
人は罪人だから、律法を行うことが出来ないでしょ」と疑問を問いかけます。確かに、
「義人はいない。一人もいない。善を行う者はいない。一人もいない。人は、その舌で
人を欺き、口は呪いと苦さで満ちている。」(ロマ3:10〜14)とあります。
ですから、いくら人が良い子振っても偽善者となって行くだけだと教えています。
確かに、この世の教育を施す側の人間も、生まれながらに持っている心の悪が消え
去っているわけではありません。ただ、心の中の罪は抑え込んで表に出さないように
して、子供たちに教えているだけです。ですから、この世の中の教育は、心の中の罪は
抑え込んで表に現さなければ、「良い子」として受け入れられて行きます。すなわち、
「ガマンの出来る子」が「良い子」として受け入れられるのです。
しかし、クリスチャンになると、その心の中に潜む悪こそが裁きの対象とされ、
厳しい裁きが絶対主から呵せられます。ですから、「義人は一人もいない」と
言われているのです。それなのに聖書にはなお「あなたの敵を愛し、あなたを憎む人々
に善くしなさい」(マタイ5:44)とも、書かれているのです。なぜでしょうか?
自分の敵を愛することなど、心の中に罪が渦巻いている者にどうして出来るの
でしょうか? 確かにその通りでしょう。しかし、クリスチャンは「キリストにあって、
この世に対して死んだ者です。また、この世もキリストに あって死んだものです」
(ガラテヤ6:14)。ということは、今現実に、肉にあって生きているクリスチャン
であっても、「この世的な道徳観で生きて行かなくても良い」ということです。
それなら、どのように歩んで行けば良いのでしょうか?それは、「肉の真面目さ」では
なく、キリストにあって「霊的な真面目さ」の中で、新しく歩み出すようにすること
です。なぜなら、この世の良い子は、自分の心の罪を抑え込んでいるだけで、いつ爆発
するか分からない偽善の中で歩むことを強いられていますが、クリスチャンは、この世
に対して死んだ者として、この世に受け入れられる歩み方をするのではなく、私たちを
罪の中から贖って救って下さった、キリストのために生きて行こうとする新しい生き方
に変えて行くからです。しかし、クリスチャンがなお、この世に対して生きようとする
と、世の人と同じように「人に誉められ、人に受け入れられること」を願って、良い子
振ろうとしてしまいます。それは、この世に対して生きているからです。そういうクリ
スチャンは、「世の人がどう思うか」が関心事となり、「人に取り入ろう」とする
生き方になってしまいます。しかし、キリストに対して生きる新しい生き方を始めた
クリスチャンは、人に取り入るためではなく、キリストに喜ばれる者として生きようと
考え始めます。すると、その生き方は地上の御利益主義ではなく、天におられるキリ
ストに心を向けた生き方に変わって行きます。それは、地上の誉れを求める生き方で
はなく、純粋な損得抜きの生き方になって行くのです。これがキリストにあって、
「霊的な真面目さ」としての生き方なのです。
クリスチャンの中にも、社会派クリスチャンとか、慈善家クリスチャンと称する人々も
います。彼らが、直接キリストに心を向けず、人に向けた慈善となれば、一歩間違える
と自分の満足と自分の栄光を求める生き方とも成り兼ねません。それは、「純粋に
自分を犠牲にして、絶対主に対して行ったものなのか」が問われていくからです。
しかし、クリスチャンはキリストに対して、また絶対主に対してする行為なのですから、
人の歓心を求めてやっていくのではありません。この心をもって始めれば純粋な行為
として、新しい歩みをしていけるはずです。これが、クリスチャンの絶対主に対する
「霊的な真面目さ」を抱いた新しい心の生き方なのです。
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