「義人は信仰によって生きる」と聖書には何度も書いてあります。しかし、この信仰
によって生きるということが、クリスチャンにとって簡単なことではありません。
なぜなら、頭では分かっても、心が付いて行かないからです。なぜ心が付いて行か
ないのでしょうか?それは、パウロさんもローマ書で語っているように、私たちの心は
「自分のしたい事は行わず、かえって自分の憎む事を行っている」からです(ロマ7:15)。
それは、信じた後でも依然と罪の性質は現存し、消え去っていないからです。なぜなら、
私たちはキリストの贖いによって罪から救われた者ですが、この肉体にある間は、罪の
性からは解放されません。キリストの来臨は、一度目の時は、「多くの人の罪を
負うため」に来られ、二度目は「罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々に、
救いを与えるために来られるのです」(へブル9:28)。ですから、キリストの救いは、
この命を閉じて「生ける絶対主の都」(へブル12:22)に入れられる時、キリストの
贖いを受けた者が御霊の体を頂く時に実感するのです。すると、その御国では絶対主が
「私たちの罪と不法を決して思い出すことはしない」と言われた通り、キリストの血に
よってきよめられた永遠の命の幸いを味わうのです。
ということは、クリスチャンがこの地上にいる間は、「御霊の初穂を頂いている私たち
自身も、心の内でうめきながら、体の贖われることを日々待ち望んでいるのです」(ロマ
8:23)。ですから、これが現在の現状です。すなわち、肉にあって歩んでいる間は、
罪人の姿を持ったままで「信仰によって生きる」ことになります。このように、依然と
罪の性質が現存する中では、キリストによって生きることの難しさを、信じたクリス
チャンは覚えているのです。しかしながら絶対主は、そんな私たちが地上で生きて行く
時、「まことに、あなたは生け贄を喜ばれません。全焼の生け贄を望まれません。
絶対主への生け贄は砕かれた魂、砕かれた悔いし心。絶対主よ。あなたは、それをさげ
すまれません」(詩51:16∼17)と、言って下さいます。ですから、罪人にとって
出来ることは自分の罪に正直になることです。そして、へり下って「自分の負けを認める
こと」です。その時、絶対主は「自分の罪を度毎に認め、告白し続けるなら、絶対主は
真実で正しい方ですから、それらの罪を赦し、一つ一つの不義から私たちをきよめて
下さいます」(Ⅰヨハネ1:9)と語っていて下さるのです。すなわち、「自分の罪を
正直に認めて悔いて行くなら、それで良し」と言われており、「もはや、彼らの罪と不法
を決して思い出すことはしない」(へブル10:17)と言われた御言が、この肉の中に
あって歩んでいる現代にも当てはまることなのです。
何という救いでしょうか?
こんな尊い救いをないがしろにして、罪人が他に生きて行ける道があるでしょうか?
私たちは、この救いをキリストの御蔭で頂いたのです。ならば、このキリストによって
生きる以外、道はありません。罪人の自分にいくら期待しても、惨めな自分を見るだけ
です。だから私たちは、「自分の負けを認めて、信仰によって生きる」方向へと、心を
転換するのです。「信仰によって生きる」とは、絶対主のために生きて行くことです。
絶対主の御心の為に、一つでも二つでも、否もっともっと絶対主の為に生きて行きたい
と心を定めることです。これは、律法ではありません。「全て絶対主に聞き、絶対主の
考え方で決めて行く生き方」の転換こそが、「義とされた者は、信仰によって生きる」
ということになるのです。クリスチャンにとっては、ヘリ下りの心を以って絶対主を
第一にして行く生き方に変えてこそ、価値ある命となるでしょう。
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